大浦城跡(読み)おおらじようあと

日本歴史地名大系 「大浦城跡」の解説

大浦城跡
おおらじようあと

[現在地名]鶴岡市大山三丁目

大山の市街地の北西、現在の大山公園にある。尾浦おうら城ともいい、慶長八年(一六〇三)以降大山城とよばれたとされる(「菅原政次書留」旧山形県史所収文書)。築城年代は不詳。来迎寺年代記(伊藤文書)に天文元年(一五三二)のこととして「弓矢起、崇禅寺般若寺炎上、其外大宝寺内亡処ト成」とあり、このとき大宝寺だいほうじ城主武藤晴時が同城を離れ、より堅固な当城に移ったといわれる。郷政録(大山区有文書)には天文初期から慶長五年上杉・最上両氏の合戦で炎上するまで城があったとある。城は西に高館たかだて(二七三・八メートル)を背負い、北・東・南の三方を急崖で囲まれた標高四六メートルぐらいの小丘しろ(太平山)の上にある。崖下を菱津ひしづ川が北へ流れ、城の対岸の平地に居館・侍屋敷を構えて二の丸として菱津川の分流(近世には陣屋川)で囲み、その外側が三の丸となっていた。三の丸には町屋が立並び、ここを北は出羽秋田、南は越後に通じる北国ほつこく(のち浜街道)が通っていた(筆濃余理)。年代を確定することはできないが、大浦城の本丸は三二間×一六間、その西側の西の丸は三〇間×二〇間、北側の櫓は一七間×一六間の規模とみられている(郷政録)。現在本丸と西の丸の間の空濠とみられる凹地が残り、その周りを郭が何重にも取巻く堅固な構えで、庄内随一の規模を有する。


大浦城跡
おおうらじようあと

[現在地名]岩木町賀田 大浦

岩木山の東南麓、賀田よした集落の西に位置し、北と西に接して後長根うしろながね川が流れ、南は百沢ひやくざわ道に面する。賀田城ともよび、旧名八幡やわた城。

文亀二年(一五〇二)大浦光信が築き、その子盛信を配置した。続いて政信・為則・為信ら代々大浦氏が津軽進出・平定の拠点とした城で、文禄三年(一五九四)津軽(大浦)為信が堀越ほりこし(現弘前市)に移って廃城となった(永禄日記)

慶安二年(一六四九)津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳(八木橋文庫蔵)に「八幡古城 但平城」とあり、城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸(本丸西の小丸)よりなっていた。


大浦城跡
おおうらじようあと

[現在地名]有明町大浦

大浦の海岸に近い船津ふなつにあり、野積みの石垣・曲輪跡などの遺構がみられる。慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)に「大浦古城 山城曲輪弐百七拾間、右之古城より大浦迄三拾間」とみえる。天正一七年(一五八九)小西行長・加藤清正連合軍との天草合戦に、上津浦氏の部将大浦彦四郎重常が志岐しき(現苓北町)の応援に駆けつけている。


大浦城跡
おおうらじようあと

[現在地名]西有家町里坊名 本丸平

本丸平ほんまるびらに築かれた中世の城跡。九州の南朝方の拠点である有家城の出城で、かつては入江が深く入り込んでいた。有江氏の居城とされ、永徳二年(一三八二)の戦ではいったん降伏した有馬泰隆が、同三年九月一七日の大浦城(大垣城)の攻防戦では九州探題の今川了俊の軍勢を悩ませたとされる(「北肥戦誌」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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