改訂新版 世界大百科事典 「大番舎人」の意味・わかりやすい解説
大番舎人 (おおばんとねり)
摂関家に人身的に従属し,摂関家の政所をはじめ御服所,細工所等において宿直,警固,掃除等の番役に従事したもの。大番舎人の保有する屋敷地,在家,田畠を大番領といった。その成立については,(1)律令制の舎人制度が弛緩して摂関家にも行われるようになった。(2)〈近衛舎人〉と呼ばれていた六衛府の府生が摂関家の従者となり,大番舎人となった。(3)国衙の諸役収奪から逃れようとして摂関家の権威をたよって大番舎人となった。(4)大番舎人には雑役免等の特権があったが,それを求めて大番舎人が増加した等々が指摘されている。11,12世紀の交,畿内では均等名(きんとうみよう)が形成されるころ,荘園成立と同じような情勢のなかで,土地寄進にはじまる荘園の成立とは異なって,人身的隷属関係を結ぶことによって成立したものが大番舎人である。また,大番舎人は近江,摂津,和泉の3ヵ国の公領や荘園に居住する者に限られ,それぞれ在地においては有力名主層であり,村々刀禰(とね)職等を相伝するという存在であった。その特権としては大番舎人1人別給田1町,雑免田3町,在家役免除4宇がみとめられていた。番役の勤仕は殿下方と高陽院(かやのいん)方とに分かれていたが,《兵範記》紙背文書にみられる1159年(平治1)閏5月から6月にかけての〈高陽院方舎人当番支配状〉によれば,名(みよう)別に1人宛の舎人が1ヵ月に10日ずつ上番して交替した。1ヵ月の計は高陽院方のみでは108人,殿下方を含めると268人となっている。国別の内訳は摂津20余人,和泉41人,近江206人である。ただしこれは10日間単位の人数で,1日を単位とした1ヵ月の延べ人数は2680人という膨大な数になる。大番舎人は政所の管轄下にあり,京番頭が受持区域内の舎人の招集にあたり,国ごとに大番領雑掌がいた。大番保司,大番領案主職の名称もみられ,それぞれ一定の職掌を分担していたようである。鎌倉中期以降には〈大番米〉なる文言もみられるが,これは番役勤仕が物納にかわったものと理解されてきたが,舎人(名主)が百姓たちから得分として収取していたものという見解も出されている。大番舎人,大番領雑掌といった文言は南北朝期の史料にもみられるが,このころには実質的にはその歴史的役割を終えていたと思われる。
執筆者:福田 榮次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報