大野一雄(読み)オオノカズオ

デジタル大辞泉 「大野一雄」の意味・読み・例文・類語

おおの‐かずお〔おほのかずを〕【大野一雄】

[1906~2010]舞踏家北海道の生まれ。石井ばく、江口隆哉たかや師事土方巽ひじかたたつみとの共演などで舞踏界に大きな影響を与えた。海外公演も多く、特にヨーロッパで高い評価を得た。作品に「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」など。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「大野一雄」の解説

大野 一雄
オオノ カズオ


職業
舞踏家

肩書
大野一雄舞踏研究所主宰

生年月日
明治39年 10月27日

出生地
北海道 函館

学歴
大館中(旧制)〔大正14年〕卒 日本体育会体操学校(日本体育大学)〔昭和4年〕卒

経歴
生家は網元で、9人兄弟の長男。日本体育会体操学校(日本体育大学)在学中の昭和4年、帝国劇場スペインの舞姫アルヘンティーナ(アントニア・メルセ)の来日公演を目にして衝撃を受けた。卒業後は横浜のミッションスクールである関東学院中等部や捜真女学院の体操教師を務め、体育でダンスを教えなければならなくなったため、8年我が国のモダンダンスの創始者である石井漠の舞踊研究所に入り、11年からは江口・宮舞踊研究所で江口隆哉・宮操子夫妻に師事した。13年応召して中国戦線・ニューギニア戦線に従軍。20年ニューギニアで敗戦を迎えた。21年復員し体操教師に復職。24年43歳の時に初のリサイタルである大野一雄現代舞踊公演を開催。29年安藤三子舞踊公演「鴉」に賛助出演し、ここで22歳下の土方巽と知り合った。以後、土方の作品「あんま」「バラ色ダンス」「性愛恩懲学指南図絵―トマト」、土方演出の高井富子「形而情学」などに出演。土方と並んで“舞踏”の確立に貢献し、その創始者の一人となった。43年土方の舞台「土方巽と日本人」を最後に舞台活動を休止すると、以降は長野千秋監督の舞踏映画〈O氏三部作〉、「O氏の肖像」(44年)、「O氏の曼陀羅 遊行夢華」(46年)、「O氏の死者の書」(48年)に主演。71歳の52年、ダンスの道に入るきっかけを作ったアルヘンティーナをたたえる「ラ・アルヘンチーナ頌」で舞台に復帰。55年捜真女学院を退職。同年フランスのナンシー国際演劇祭で「ラ・アルヘンチーナ頌」を海外初演、外見的な美を重んじる西洋のダンスとは違った、情念をにじませた踊りが大きな反響を呼んだ。以降、56年ニューヨークのラ・ママ劇場など、1980年代に入ると海外での公演が多くなり、“舞踏(BUTOH)”の名を世界的に高めた。他の代表作品に「わたしのお母さん」「死海―ウインナー・ワルツと幽霊」「睡蓮」「花鳥風月」などがある。平成10年能楽師の観世栄夫と“老い”と“救済”をテーマとした舞台「無」で共演。90歳を超えても衰えぬ表現意欲をみせ、12年に腰を痛めて自力で立てなくなった後も、車椅子に座ったまま踊り続けた。13年には「花」と題した公演で、創造的な事業に尽くした人に贈られる国際賞・織部賞グランプリを受賞。18年生誕100年を迎え、100歳記念公演「百花繚乱」に車椅子で出演。22年103歳で長逝した。

受賞
舞踊批評家協会賞(平3年度・5年度・7年度),神奈川県文化賞〔平成5年〕,日本文化デザイン賞〔平成10年〕,横浜文化賞〔平成10年〕,芸能功労者表彰〔平成11年〕,ミケランジェロ・アントニオーニ賞(イタリア)〔平成11年〕,織部賞グランプリ〔平成13年〕,朝日舞台芸術賞(特別賞 第1回)〔平成14年〕

没年月日
平成22年 6月1日 (2010年)

家族
二男=大野 慶人(舞踏家)

伝記
大野一雄 百年の舞踏Corpus(コルプス)―身体表現批評〈no.1〉特集 大野一雄暗黒舞踏論舞踏(BUTOH)大全―暗黒と光の王国独特老人見ることの距離―ダンスの軌跡1962〜1996舞踏の水際大野一雄 魂の糧人物十一景危機と飛翔1906―to the skin天人戯楽―大野一雄の世界アウラを放つ闇―身体行為のスピリット・ジャーニー集成 大野一雄舞踏譜―御殿、空を飛ぶ。打ち震えていく時間 大野一雄舞踏研究所 編清水 正 著原田 広美 著後藤 繁雄 編著市川 雅 著,国吉 和子 編中村 文昭 著大野 慶人,大野一雄舞踏研究所 編松井 覚進 編鶴岡 善久 著石内 都 著立木 鷹志 編著石井 達朗 著大野 一雄 著吉増 剛造 著(発行元 フィルムアート社コルプス,書苑新社〔発売〕鳥影社現代書館筑摩書房新書館思潮社フィルムアート社青木書店沖積舎河出書房新社青弓社PARCO出版思潮社思潮社 ’07’07’05’04’01’00’00’99’99’96’94’93’93’92’87発行)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大野一雄」の意味・わかりやすい解説

大野一雄
おおのかずお

[生]1906.10.27. 北海道,函館
[没]2010.6.1. 神奈川,横浜
舞踏家。前衛舞踊「舞踏」の名を世界に知らしめた一人。網元の長男として生まれた。1925年旧制大館中学校,1929年日本体育会体操学校を卒業。横浜市内の私立学校に体育教師として勤めながら 1年間石井漠舞踊研究所(→石井漠)でダンスを学んだ。1936年に江口隆哉,宮操子の舞踊研究所に入ったが召集されて舞踊活動を中断,第2次世界大戦後に復帰する。その間の 1930年に受洗。1949年に初のリサイタルを行なった。1954年頃土方巽と出会い,「舞踏」のスタイルを生み出した。1977年初演の代表作,スペイン舞踊の革新者ラ・アルヘンティーナに捧げられた『ラ・アルヘンチーナ頌』は土方巽の演出で,白塗りの女装姿で踊る。この作品は海外の芸術家に衝撃を与え,高い評価を得てヨーロッパやアメリカ合衆国など世界各国に活躍の場を広げた。土方巽などの暗黒舞踏派や笠井叡らに強い影響を与えた。代表作に『わたしのお母さん』『死海 ウインナーワルツと幽霊』『睡蓮』など。1999年ミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞,2002年朝日舞台芸術賞特別賞を受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野一雄」の意味・わかりやすい解説

大野一雄
おおのかずお
(1906―2010)

舞踊家。函館(はこだて)に生まれる。江口隆哉(たかや)に師事し、第二次世界大戦後、舞踊界に復帰。『タンゴ』『街角』『老人と海』を発表、若い舞踊家に大きな影響を与えた。1960年代初期に土方巽(ひじかたたつみ)の協力者として「舞踏」というジャンルが生まれる発端をつくった。その後も土方巽の作品に共演するが、約20年間自身の作品を発表せず、1977年(昭和52)に突然『アルヘンチーナ頌(しょう)』を上演し、再復帰した。1980年フランスのナンシー演劇祭に招待され、高い評価を受け、ヨーロッパにおける舞踏ブームのきっかけをつくる。作品に『わたしのお母さん』『お膳(ぜん)』『水蓮(すいれん)』『死海』などがある。

[國吉和子]

『大野一雄著『舞踏譜―御殿、空を飛ぶ』(1992・思潮社)』

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百科事典マイペディア 「大野一雄」の意味・わかりやすい解説

大野一雄【おおのかずお】

舞踏家。函館市生れ。日本体育会体操学校修了後教師となる一方,江口隆哉に師事してドイツ表現主義舞踊を知る。第2次大戦応召をへて,戦後《エルンスト家の塑像》《タンゴ》などを発表。1960年代以降は土方巽に協力し,《あんま》(1963年),《バラ色ダンス》(1965年)などに客演して舞踏の草創期を担ったほか,映画にも出演。1929年に帝国劇場で観たスペインの女性舞踊家アルヘンティーナに捧げた久々のソロ公演《ラ・アルヘンチーナ頌》(1977年)では,死者への愛というテーマを演じて高い評価を得た。1980年代以降は海外公演も行い,100歳をこえても現役を続け,舞踏界の最長老として活躍した。
→関連項目シュミット

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大野一雄」の解説

大野一雄 おおの-かずお

1906-2010 昭和-平成時代の舞踊家。
明治39年10月27日生まれ。江口隆哉に師事。体育教師をつとめながら舞踊家をこころざす。復員後の昭和24年初リサイタルをひらき,36年から暗黒舞踏派の土方巽(ひじかた-たつみ)らの作品に出演。52年「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」を発表。海外公演もおおい。平成10年能楽師観世栄夫(ひでお)と新作能「無」を共演。平成22年6月1日死去。103歳。北海道出身。日本体育会体操学校(現日体大)卒。

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367日誕生日大事典 「大野一雄」の解説

大野 一雄 (おおの かずお)

生年月日:1906年10月27日
昭和時代;平成時代の舞踏家

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