藤原永手(読み)フジワラノナガテ

デジタル大辞泉 「藤原永手」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ながて〔ふぢはら‐〕【藤原永手】

[714~771]奈良時代公卿房前ふささきの子。称徳天皇が没すると、藤原百川ももかわらとはかって光仁天皇擁立し、道鏡を追放した。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原永手」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ながて【藤原永手】

  1. 奈良時代の公卿。房前の子。称徳天皇が没すると、藤原百川らとはかって光仁天皇を擁立し、道鏡を追放した。和銅七~宝亀二年(七一四‐七七一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原永手」の意味・わかりやすい解説

藤原永手
ふじわらのながて
(714―771)

奈良時代の政治家。北家(ほっけ)の祖房前(ふささき)の二男。母は牟漏(むろ)女王。737年(天平9)従(じゅ)五位下に叙せられたのち昇進を重ねた。757年(天平宝字1)に皇太子道祖(ふなど)王が廃されると、右大臣藤原豊成(とよなり)と道祖王の兄塩焼(しおやき)王を推したが実現しなかった。しかし同年中納言(ちゅうなごん)に昇進し、まもなく起こった橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変の処理に活躍したが764年の藤原仲麻呂の乱のときは仲麻呂打倒に功あり、称徳(しょうとく)朝に重んぜられ左大臣まで昇進。称徳天皇崩御後藤原良継(よしつぐ)、同百川(ももかわ)らと謀って光仁(こうにん)天皇を擁立し、死後太政(だいじょう)大臣を贈られた。『日本霊異記(りょういき)』下巻に、法華寺の幢(はたほこ)を倒さしめ、西大寺の八角の塔を四角にし七層を五層にして悪報を得たとある。

福井俊彦

『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』『横田健一著『道鏡』(1959・吉川弘文館)』『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原永手」の意味・わかりやすい解説

藤原永手 (ふじわらのながて)
生没年:714-771(和銅7-宝亀2)

奈良中~後期の官人。房前(ふささき)の第2子,母は牟漏女王(県犬養三千代の女),妻は大野仲智。家依(第1子)の父。《尊卑分脈》によると雄依も永手の第3子とある。757年(天平宝字1)中納言となり,皇太子道祖(ふなど)王にかわって塩焼王を推したが失敗し,藤原仲麻呂の推す大炊王が立太子した。しかし恵美押勝の乱中から称徳女帝の治世にかけて,764年9月大納言,766年(天平神護2)1月右大臣,同年10月左大臣と順調に昇進した。称徳女帝の重病により,770年(宝亀1)近衛外衛左右兵衛のことを摂知し,中衛左右衛士のことを摂知した右大臣吉備真備とともに,中央の軍事力を掌握した。女帝の没後,藤原百川・良継らとはかって白壁王を皇太子に擁立した。771年の没時は左大臣正一位であった。太政大臣を追贈されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原永手」の意味・わかりやすい解説

藤原永手
ふじわらのながて

[生]和銅7(714).奈良
[没]宝亀2(771).2.22. 奈良
奈良時代後期の廷臣。藤原北家の祖房前の子。母は大宰帥美努王の娘牟漏女王。天平勝宝6 (754) 年従三位,のち権中納言に任じ,恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) の乱中に大納言に進み,道鏡の政権のもとにあっても,右大臣,左大臣となり,道鏡排斥の頂点に立ってこれを成功に導いた。また称徳天皇が後嗣を決めずに没すると,白壁王を立てて光仁天皇とし,その功により宝亀1 (770) 年正一位,山城国相楽郡に 200町の山地を賜わった。

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朝日日本歴史人物事典 「藤原永手」の解説

藤原永手

没年:宝亀2.2.22(771.3.12)
生年:和銅7(714)
奈良時代の貴族。藤原房前と美努王の娘牟漏女王の子。房前の第2子。天平9(737)年,父の死後従六位上から従五位下に越階し,藤原北家の代表者として急速に昇進した。天平勝宝8(756)年,参議を経ないで権中納言,翌年中納言に進む。藤原仲麻呂の乱(764)後の道鏡政権下でも昇進し,天平神護2(766)年には左大臣となり廟堂首座の席に就いた。称徳天皇の死後は藤原百川,良継らと行動を共にし,白壁王(のちの光仁天皇)を皇太子として道鏡を排除し,光仁天皇擁立を主導,その功により正一位に叙された。病を得て急死。別名長岡大臣。

(増渕徹)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原永手」の解説

藤原永手 ふじわらの-ながて

714-771 奈良時代の公卿(くぎょう)。
和銅7年生まれ。北家藤原房前(ふささき)の次男。母は牟漏(むろの)女王。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年(756)権(ごんの)中納言となり,道鏡政権下で左大臣にすすむ。称徳天皇が没すると道鏡を排除し,光仁(こうにん)天皇を擁立。功により正一位となった。宝亀(ほうき)2年2月22日死去。58歳。贈太政大臣。長岡大臣とよばれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原永手」の解説

藤原永手
ふじわらのながて

714〜771
奈良後期の公卿
通称長岡大臣。房前 (ふささき) の2男。恵美押勝の乱後政界に重きをなし,称徳天皇の信任をうけ,道鏡の専制下に左大臣となった。770年称徳天皇の死後藤原百川 (ももかわ) らと光仁天皇を擁立し,道鏡を下野薬師寺に追放した。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原永手の言及

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原永手」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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