奈良時代の政治家。北家(ほっけ)の祖房前(ふささき)の二男。母は牟漏(むろ)女王。737年(天平9)従(じゅ)五位下に叙せられたのち昇進を重ねた。757年(天平宝字1)に皇太子道祖(ふなど)王が廃されると、右大臣藤原豊成(とよなり)と道祖王の兄塩焼(しおやき)王を推したが実現しなかった。しかし同年中納言(ちゅうなごん)に昇進し、まもなく起こった橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変の処理に活躍したが764年の藤原仲麻呂の乱のときは仲麻呂打倒に功あり、称徳(しょうとく)朝に重んぜられ左大臣まで昇進。称徳天皇崩御後藤原良継(よしつぐ)、同百川(ももかわ)らと謀って光仁(こうにん)天皇を擁立し、死後太政(だいじょう)大臣を贈られた。『日本霊異記(りょういき)』下巻に、法華寺の幢(はたほこ)を倒さしめ、西大寺の八角の塔を四角にし七層を五層にして悪報を得たとある。
[福井俊彦]
『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』▽『横田健一著『道鏡』(1959・吉川弘文館)』▽『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』
奈良中~後期の官人。房前(ふささき)の第2子,母は牟漏女王(県犬養三千代の女),妻は大野仲智。家依(第1子)の父。《尊卑分脈》によると雄依も永手の第3子とある。757年(天平宝字1)中納言となり,皇太子道祖(ふなど)王にかわって塩焼王を推したが失敗し,藤原仲麻呂の推す大炊王が立太子した。しかし恵美押勝の乱中から称徳女帝の治世にかけて,764年9月大納言,766年(天平神護2)1月右大臣,同年10月左大臣と順調に昇進した。称徳女帝の重病により,770年(宝亀1)近衛外衛左右兵衛のことを摂知し,中衛左右衛士のことを摂知した右大臣吉備真備とともに,中央の軍事力を掌握した。女帝の没後,藤原百川・良継らとはかって白壁王を皇太子に擁立した。771年の没時は左大臣正一位であった。太政大臣を追贈されている。
執筆者:栄原 永遠男
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(増渕徹)
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…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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