江戸後期の狂歌人。漢江とも書く。本名山崎景貫。字(あざな)は道父、号准南堂(わいなんどう)。江戸・市谷(いちがや)に住む幕臣。内山賀邸に学び、和歌と雑俳に親しんだが、同門の四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)らに誘われて狂歌を始め、しだいに普及流行するとともに赤良、橘洲と並ぶ三大家に数えられた。1783年(天明3)江戸狂歌最初の選集『万載(まんざい)狂歌集』を赤良と共編し、1785年には門下の朱楽連を中心とする『狂言鶯蛙集(おうあしゅう)』を刊行した。これより先、安永(あんえい)(1772~1781)後期には赤良と同じく洒落本(しゃれぼん)に筆をとり『売花新駅(ばいかしんえき)』『大抵御覧(たいていごらん)』『雑文穿袋(ざつもんせんてい)』などを著し、また川柳(せんりゅう)の牛込蓬莱連(ほうらいれん)に入って1780年(安永9)から『川傍柳(かわぞいやなぎ)』初篇(へん)~5篇を出すなど幅広く活動している。寛政(かんせい)の改革(1787~1793)時には和歌に近い作風に転じて『狂歌大体』を著したが、晩年は朱楽連の指導は妻の節松嫁々(ふしまつかか)に任せ、寛政10年12月12日池之端(いけのはた)の芬陀利華庵(ふんだりげあん)で没した。墓所は青原寺(東京都中野区)。
立ちて見し柱暦もねころんでよめるばかりに年はくれにき
[浜田義一郎]
江戸後期の狂歌・戯作の作者。本名は山崎景貫。別号准南堂。幕臣。内山賀邸に学び,同門の唐衣橘洲(からごろもきつしゆう),四方赤良(よものあから)(大田南畝)らと戯れに狂歌を作ったのが意外に流行し,三大家と称された。門下を朱楽連と号して1785年(天明5)に狂歌撰集《狂言鶯蛙集》を出した。他方,安永年間(1772-81)は赤良に続いて洒落本を書き《売花新駅》《大抵御覧》《雑文穿袋》などの作があるし,若い時に前句付(まえくづけ)に親しんだので1780年から川柳の牛込蓬萊連グループに属して《川傍柳(かわぞいやなぎ)》編撰に参加した。寛政改革後は狂歌の作風を変えて《狂歌大体(だいたい)》を著し,和歌に近い立場をとった。なお,菅江の死後は妻の狂名節松嫁々(ふしまつのかか)が朱楽連をひきいた。
執筆者:浜田 義一郎
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…17巻2冊。四方赤良(よものあから)・朱楽菅江(あけらかんこう)編。菅江序,赤良序,橘のやちまた(加藤千蔭)跋。…
※「朱楽菅江」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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