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朱楽菅江 あけらかんこう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朱楽菅江
あけらかんこう

[生]元文5(1740).10.24. 江戸
[没]寛政12(1800).12.12. 江戸
江戸時代中期~後期の狂歌作者,戯作者。本名,山崎景貫。通称,郷之助。号,朱楽館,淮南堂,貫立,漢江。幕臣,先手与力。若年から談林の俳諧に遊び,また内山賀邸 (椿軒) の門に入り和歌を学んだ。唐衣 (からごろも) 橘州,四方赤良 (よものあから) らと同門。初め前句付に進み,貫立と号し,『川傍柳 (かわぞいやなぎ) 』 (1780~83) を編。狂歌では唐衣橘洲の狂歌会に参加,朱楽連を形成。川柳風で平俗な狂歌を多く詠み,天明ぶり狂歌を代表する一人。天明5 (85) 年狂歌集『故混馬鹿集』 (『狂言鶯蛙集』) を撰した。狂歌は『万載狂歌集』『徳和歌後万載集』に入集。洒落本も著わし,『売花新駅』 (77) ,『大抵御覧』 (79) などがある。妻まつ女も狂歌をよくし,節松嫁々 (ふしまつのかか) と称し,菅江没後社中を率いた。

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百科事典マイペディアの解説

朱楽菅江【あけらかんこう】

江戸中・後期の狂歌師,戯作者。本名山崎景貫。別号朱楽館,淮南堂。幕臣で先手与力。初め前句付に入り貫立と称した。唐衣橘洲(からごろもきっしゅう),四方赤良(大田南畝),とともに狂歌三大家と呼ばれ,また洒落本も書いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

朱楽菅江 あけら-かんこう

1738-1799* 江戸時代中期-後期の狂歌師,戯作(げさく)者。
元文3年生まれ。妻は節松嫁々(ふしまつの-かか)。幕臣。内山椿軒(ちんけん)にまなび,同門の唐衣橘洲(からころも-きっしゅう),四方赤良(よもの-あから)(大田南畝(なんぽ))とともに狂歌の三大家といわれた。門下を朱楽連と称した。天明5年「故混馬鹿(ここんばか)集」を刊行。洒落(しゃれ)本「売花新駅」などもかいた。寛政10年12月12日死去。61歳。姓は山崎。名は景貫。字(あざな)は道甫。通称は郷助。別号に淮南堂,貫立,朱楽館など。
【格言など】執着の心や娑婆(しゃば)にのこるらん吉野の桜更科(さらしな)の月(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

朱楽菅江

没年:寛政10.12.12(1799.1.17)
生年:元文3(1738)
江戸時代の狂歌作者。山崎氏。名は初め景基,のち景貫。通称は郷助。俳名は貫立。朱楽館と号す。朱楽菅(漢)江は“あっけらかん”をもじった狂名。幕臣で,江戸市谷二十騎町に住んだ。儒者で歌人の内山椿軒の門人となり,和歌を学ぶ一方,貫立の俳名で雑俳にも親しんだ。同門の大田南畝(狂名四方赤良),唐衣橘洲,平秩東作らに誘われて,安永初めごろから狂歌を始め,やがて妻(狂名節松嫁々)と共に門人グループを率いて,朱楽連と称した。また洒落本にも手を染め,安永6(1777)年に『売花新駅』,同8年に『雑文穿袋』『大抵御覧』を刊行し,文名をあげた。翌安永9年に牛込御納戸町の川柳グループ蓬莱連にかつがれて『川傍柳』の刊行に協力しているのも,その文名を慕われてのことであろう。狂歌の方では,天明3(1783)年に四方赤良と共に選者を務めた『万載狂歌集』が,天明江戸狂歌大流行の端緒を作った。同5年には『故混馬鹿集』を自選し,天明狂歌界の重鎮として,種々の狂歌会に参加し,『絵本江戸爵』(1786)などの狂歌絵本も編集した。天明7年に赤良が狂歌界を離れてからは,唐衣橘洲と共に山手側の代表的存在となり,寛政期に入ると,作風は和歌へと移っていった。寛政3(1791)年ごろ,不忍池のほとりに隠居して芬陀利華庵と号した。菅江没後の朱楽連は妻が率い,死の翌年向島に「執着の心や娑婆にのこるらんよし野の桜さらしなの月」の歌碑を建てた(三囲神社境内に現存)。

(園田豊)

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世界大百科事典 第2版の解説

あけらかんこう【朱楽菅江】

1740‐1800(元文5‐寛政12)
江戸後期の狂歌・戯作の作者。本名は山崎景貫。別号准南堂。幕臣。内山賀邸に学び,同門の唐衣橘洲(からごろもきつしゆう),四方赤良(よものあから)(大田南畝)らと戯れに狂歌を作ったのが意外に流行し,三大家と称された。門下を朱楽連と号して1785年(天明5)に狂歌撰集《狂言鶯蛙集》を出した。他方,安永年間(1772‐81)は赤良に続いて洒落本を書き《売花新駅》《大抵御覧》《雑文穿袋》などの作があるし,若い時に前句付(まえくづけ)に親しんだので1780年から川柳の牛込蓬萊連グループに属して《川傍柳(かわぞいやなぎ)》編撰に参加した。

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大辞林 第三版の解説

あけらかんこう【朱楽菅江】

1738~1798) 江戸後期の狂歌師・川柳作者。江戸の人。本名、山崎景貫。通称、郷助。俳名貫立。号、淮南堂・朱楽館主人ほか。幕臣。和歌を内山椿軒に学ぶ。唐衣橘洲からごろもきつしゆう・四方赤良よものあから(=大田南畝おおたなんぽ)とともに狂歌三大家の一。「故混馬鹿集」「絵本江戸爵」「狂歌大体」ほか。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朱楽菅江
あけらかんこう
(1738―1798)

江戸後期の狂歌人。漢江とも書く。本名山崎景貫。字(あざな)は道父、号准南堂(わいなんどう)。江戸・市谷(いちがや)に住む幕臣。内山賀邸に学び、和歌と雑俳に親しんだが、同門の四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)らに誘われて狂歌を始め、しだいに普及流行するとともに赤良、橘洲と並ぶ三大家に数えられた。1783年(天明3)江戸狂歌最初の選集『万載(まんざい)狂歌集』を赤良と共編し、1785年には門下の朱楽連を中心とする『狂言鶯蛙集(おうあしゅう)』を刊行した。これより先、安永(あんえい)(1772~1781)後期には赤良と同じく洒落本(しゃれぼん)に筆をとり『売花新駅(ばいかしんえき)』『大抵御覧(たいていごらん)』『雑文穿袋(ざつもんせんてい)』などを著し、また川柳(せんりゅう)の牛込蓬莱連(ほうらいれん)に入って1780年(安永9)から『川傍柳(かわぞいやなぎ)』初篇(へん)~5篇を出すなど幅広く活動している。寛政(かんせい)の改革(1787~1793)時には和歌に近い作風に転じて『狂歌大体』を著したが、晩年は朱楽連の指導は妻の節松嫁々(ふしまつかか)に任せ、寛政10年12月12日池之端(いけのはた)の芬陀利華庵(ふんだりげあん)で没した。墓所は青原寺(東京都中野区)。
 立ちて見し柱暦もねころんでよめるばかりに年はくれにき[浜田義一郎]

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367日誕生日大事典の解説

朱楽菅江 (あけらかんこう)

生年月日:1738年10月24日
江戸時代中期;後期の狂歌師
1799年没

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世界大百科事典内の朱楽菅江の言及

【万載狂歌集】より

…17巻2冊。四方赤良(よものあから)・朱楽菅江(あけらかんこう)編。菅江序,赤良序,橘のやちまた(加藤千蔭)跋。…

※「朱楽菅江」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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