天霧城跡(読み)あまぎりじようあと

日本歴史地名大系 「天霧城跡」の解説

天霧城跡
あまぎりじようあと

[現在地名]善通寺市碑殿町・吉原町、仲多度多度津町奥白方・山階、三豊三野町大見

雨霧城とも記す。天霧山(三八一・五メートル)の山頂部および尾根筋に遺構を残す南北朝期から戦国期にかけての中世山城(詰の城)跡。天霧山は瀬戸内海に面してそそり立つ溶岩台地である弥谷いやだに山山系の東端に位置し、ほぼ独立した地形であるが、わずかに鳥坂とつさか峠を鞍部として火上ひあげ山に連なる。山頂からは三本の短い尾根が東・北東・北に下る。南西には急坂を経て二つの小丘があって弥谷山に続く。山裾まで急峻な斜面となっており、自然の要害を呈している。東は眼下に丸亀平野を一望、南麓を通る伊予街道が展望できるという立地に恵まれている。

城郭は山頂部から北東に下る尾根稜線上に空堀を設け、これより内側が本丸を中心とする内郭で、空堀から東方と北に延びる尾根、さらに途中から派生して北東に下る尾根の各稜線上には階段状に郭を連ねる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「天霧城跡」の解説

あまぎりじょうあと【天霧城跡】


香川県善通寺市碑殿待ち・吉原町、仲多度郡多度津町、三豊(みとよ)市にまたがる城跡。仲多度平野西北に位置する、標高360mの天霧山に築かれた中世讃岐国の豪族香川氏の居城。香川氏の祖は相模国香川荘出身の東国武士で、南北朝時代に守護細川氏の被官(ひかん)で、1362年(正平17・貞治1)の白峯(しろみね)合戦での戦功により、三野・多度・豊田を領地として与えられたという。多度津の本台(ほんだい)山に居館を設け、天霧山に詰め城を築いたが、1585年(天正13)、香川氏が土佐に移り、廃城となった。天霧山の最高所の馬背状尾根には、天霧城の主郭ともいうべき大小10の郭(くるわ)が階段状に連なり、鞍部にある幅5m、深さ3mの堀切りがそれらの郭群を2分している。尾根の北端から北方へのびる尾根は多度津にいたる大手道であり、3群の段状郭遺構が認められる。山頂から東北方に屈曲する尾根上に3群15ヵ所、東方へ続く尾根上に大小11ヵ所の郭跡がある。郭群は城の主要部を幾重にも防備し、峻険な地形と相まって堅固な山城を構成している。天霧城跡は、南北朝時代から戦国時代にいたる四国の政治勢力の動向がうかがえる遺跡で、遺構も中世山城の好例を示している。1990年(平成2)に国の史跡に指定された。JR土讃線善通寺駅から車で約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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