20世紀日本人名事典 「太田 薫」の解説
太田 薫
オオタ カオル
昭和期の労働運動家 元・総評議長。
- 生年
- 明治45(1912)年1月1日
- 没年
- 平成10(1998)年9月24日
- 出生地
- 岡山県幡多村(現・岡山市)
- 旧姓(旧名)
- 萩尾
- 学歴〔年〕
- 大阪帝大工学部応用化学科〔昭和10年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- レーニン平和賞〔昭和42年〕
- 経歴
- 昭和10年大日本特許肥料に入社。14年宇部窒素(のち宇部興産)に移る。戦後、課長兼務で同社労組初代組合長。25年合成化学関連の労組を統合し、合化労連を結成、委員長となる。27年総評結成後初の首切り反対闘争に勝利。30年総評副議長となり、岩井章事務局長とともに、“太田‐岩井ライン”と呼ばれる指導権を確立。合化労連、電機労連、私鉄総連など8単産で春闘をスタートさせた。33年総評議長に就任、41年まで務め、顧問。42年にはレーニン平和賞を受賞。54年東京都知事選に立候補したが落選。臨時行政調査会委員も歴任した。思想的には山川均、向坂逸郎ら労農派の流れにあったが、37年社会党書記長人事をめぐる抗争で構造改革を批判し、42年社会主義協会の在り方をめぐって向坂逸郎と対立した。陽気でアジテーター的な性格から“太田ラッパ”の異名を取った。「わが三池闘争記」「闘いの中で」「転換期の日本労働運動」などの著書がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報