春闘(読み)しゅんとう

精選版 日本国語大辞典 「春闘」の意味・読み・例文・類語

しゅん‐とう【春闘】

〘名〙 労働組合が、賃上げなどの要求を提出して春季に行なう共同闘争。春季闘争。《季・春》
[語誌]昭和二九年(一九五四)、当時の合成化学産業労働組合連合合化労連)の太田薫委員長の発案で、日本炭鉱労働組合(炭労)、日本私鉄労働組合総連合会私鉄総連)、全国紙パルプ産業労働組合連合会(紙パ労連)、日本電気産業労働組合(電産)との五単産共闘会議を組織し、産業別統一闘争を計画したのが最初。高度経済成長とともに賃上げの全国的統一闘争として定着した。

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デジタル大辞泉 「春闘」の意味・読み・例文・類語

しゅん‐とう【春闘】

《「春季闘争」の略》毎年春に労働組合が、賃金引き上げなど労働条件改善の要求を掲げて行う全国的な共同闘争。昭和30年(1955)に始まる。 春》「―妥結トランペットに吹き込む息/斌雄」
[類語]労働争議闘争争議

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「春闘」の意味・わかりやすい解説

春闘
しゅんとう

春季賃上げ闘争の略。企業別組合が賃金闘争を春季に合わせ、産業別労働組合組織ごとに、要求額や妥結額、要求提出日や交渉日程、ストライキや妥結の時期などのスケジュールをまえもって決定し、産業別組織間の共闘組織を通じて行動を調整・統一して、賃金の全国的・全産業的規模での引上げと平準化とを図ろうとする賃金交渉方式。企業ごとの賃金交渉を同時期に行うことで、経営者に対する立場が弱いとされた企業別組合の交渉力を強める狙いがあった。

[松尾 洋・鈴木 玲]

春闘の開始と展開

春闘は、合成化学産業労働組合連合(合化労連)委員長太田薫(かおる)の発案で1954年(昭和29)秋、日本炭鉱労働組合(炭労)、日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)、全国紙パルプ産業労働組合連合会(紙パ労連)、日本電気産業労働組合(電産)が5単産共闘会議を組織し、産業別統一闘争を計画したのがその最初である。翌1955年1月さらに全国金属労働組合(全国金属)、化学産業労働組合同盟(化学同盟)および中立の全日本電機機器労働組合連合会(電機労連、のち全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会=電機連合)が参加して8単産共闘会議となった。1955年の春闘は、政府・資本家の賃金ストップ政策に抗して参加した産業別組織すべてが賃上げをかちとった。1956年の春闘は新たに公共企業体等労働組合協議会(公労協)加盟組合、民間単産を加えて春季賃上げ合同闘争本部が設けられ、1959年には日本労働組合総評議会(総評)と中立労働組合連絡会議中立労連)とで春闘共闘委員会を組織するなど、参加する組合が拡大・定着していった。

 このような春闘の発展は、1955年以降の輸出の伸びと、莫大(ばくだい)な設備投資による景気の急上昇に支えられた。とくに1960年代の高度経済成長下での技術革新、生産性の向上などによる資本の利潤の増大、労働力需要の増加などで、ヨーロッパなみの賃上げをスローガンとする春闘は広く共感をよび、これに応ずる経済的条件も熟していた。春闘に批判的な全日本労働組合会議(全労、のち全日本労働総同盟=同盟)、全国産業別労働組合連合(新産別)もこの時期に賃金闘争を設定するようになり、春闘は実際上、賃上げの全国的統一闘争の様相を呈するようになった。1960年代なかば以降の春闘では、民間大手企業(とくに重化学工業)がパターン・セッター(相場形成役)となり、私鉄→公共事業体→国家公務員→地方公務員に波及していく賃金決定サイクルが形成され、さらにこのように形成された「春闘相場」は、組合の組織率が低い中小企業地場産業の企業が賃上げ額を決定する目安としての社会的機能をもった。

[鈴木 玲]

春闘の曲り角

1974年(昭和49)、異常な物価上昇を背景に、物価や税制、社会保障などの問題も取り上げ、「国民春闘」と名づけられたこの年の春闘が、戦後最高の30%以上の賃上げを獲得したのを最後に、景気の停滞が始まり、経済環境は厳しくなった。国民春闘、大幅賃上げの呼び声にもかかわらず賃上げ率は低く抑えられるようになり、春闘の曲り角が取りざたされた。1975年以降の春闘は、日本鉄鋼産業労働組合連合会鉄鋼労連)など市場競争にさらされている輸出産業の産業別組織が主導権を握り、生産性向上に見合った賃上げを全産業の賃上げの上限とする機能をもつようになった。また、1974年春闘までの特徴であったストライキなどの組合員の動員に基づいた「運動型」の賃上げ交渉は、争議を伴わない労使のトップレベルの交渉による賃上げに変容した。

[松尾 洋・鈴木 玲]

労働組合の再編と春闘

1980年代に入って労働戦線統一の動きが活発化し、1982年(昭和57)には民間労働組合の統一を先行させたうえで官公労組を含む統一を実現するという全日本民間労働組合協議会(全民労協)が同盟系、総評系、中立労連系、新産別系、純中立を含む41単産、429万人で結成された。全民労協は1987年には加盟55組織、オブザーバー1組織、友好6組織、555万人で全日本民間労働組合連合会(民間連合)を結成、1989年(平成1)には総評の解散に伴い、官民を含めて加盟74組織、友好4組織、798万人の新しいナショナル・センター、日本労働組合総連合会(連合)が結成された。1980年代後半、景気がやや好転するなかで、1988年から連合(1988年時は民間連合)の初の春闘が始まった。連合は春闘を「春季生活改善闘争」と名づけ、相対的に高水準の要求を行うとともに、労働時間短縮などに要求を広げていった。なお、1989年に連合に対抗して結成された全国労働組合総連合(全労連)は、中立組合などに呼びかけて「広く労働者・国民の生活改善、要求の実現をめざす共闘組織」として国民春闘共闘委員会を1990年に発足させた。

[鈴木 玲]

「春闘見直し論」と春闘の新たな方向

1992年(平成4)になるとバブル経済の崩壊から景気後退が始まり、賃上げのほか、労働時間短縮、育児休暇・介護休暇の導入などの要求はなかなか通らなくなった。主要民間企業の春闘賃上げ率は、1990年平均の5.9%から、1995年の2.8%、2000年(平成12)の2.1%に低下した。1990年代なかばより「春闘見直し論」をめぐる議論が連合加盟組織間で活発になった。元来、春闘ではナショナル・センターが統一した賃上げ目標を掲げ、産業別組織の賃金闘争のスケジュールを調整する役割を担い、パターン・セッターの産業別組織が獲得した賃上げ額・率の他の産業への波及を目ざした。このような賃上げ方式に対し、パターン・セッターの役割を担った電機、自動車などの生産性が高い産業別組織は、それぞれの産業の生産性向上を考慮して賃上げ額・率を決める「産別自決」を主張した。その結果、2002年春闘以降、連合は統一賃金要求基準にベースアップ(定期昇給を上回る賃上げ)を含めず、ベースアップの要求額・率を各産業別組織の判断に任せた。ただし、2009年春闘では、連合は物価上昇分に相当するベースアップを8年ぶりに要求した。他方、連合は2001年の春闘で初めてパートタイム労働者の賃上げを要求し、春闘をこれまでの正規労働者中心のものから非正規労働者の賃上げも考慮したものに転換した。また、連合は2004年春闘より、中小企業労働者の賃金水準の確保・向上を図り格差を是正するために「中小共闘」を設置し争議支援と情報交換を促進し、2008年春闘より月例賃金の年齢別到達水準目標を設定した。このように、春闘での賃金決定の産業レベル分散化に伴い、連合の影響力が相対的に低下したものの、連合は非正規労働者、中小企業労働者の賃上げ要求において、ナショナル・センターとしての役割を担うようになった。

[鈴木 玲]

『鈴木玲著「労働運動」(久本憲夫・玉井金五編『社会政策Ⅰ ワーク・ライフ・バランスと社会政策』所収・2008・法律文化社)』『大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』各年版(旬報社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「春闘」の意味・わかりやすい解説

春闘 (しゅんとう)

厳密には,総評,中立労連など春闘共闘委員会(1975年以降は国民春闘共闘会議)に参加する単産の賃上げ闘争を指している(同盟は春闘という用語を拒否して〈賃闘〉とよぶ)が,一般には,毎年春の時期に集中して行われる賃上げ闘争が全体として春闘とよばれる(なお総評は1989年に解散)。

1950年に総評が結成されて以降,傘下の単産はそれぞれに賃上げの実現をめざして活動を行ったが,大きな成果をあげることができず,とくに53年,54年の時期にかけては賃金闘争はほとんど失敗に終わった。その理由の一つは朝鮮戦争後の不況という経済的条件にあったが,総評自体の活動方針上にも問題があった。総評事務局長の高野実は,労働組合の政治的活動を重視し,経済闘争も政治闘争と結合すべきであり,政治の変化のなかで失業も賃金問題も解決が図られると主張した。この方針に対して合化労連委員長太田薫(のち総評議長)は,賃金闘争は政治闘争とは独立した経済闘争であり,企業別組合の弱点を克服して産業別統一闘争によって強力なストライキを組織すれば賃上げは可能であると主張した。

 54年の総評定期大会で事務局長選挙に立候補して敗れた太田は,自説を実践するため総評とは別に合化労連私鉄総連など8単産を春季賃上げ共闘会議として結集し賃上げ闘争を組織した。この8単産共闘が春闘の出発点である。55年の総評大会で高野が岩井章(国労)と事務局長を争って敗れ退陣すると,公労協も参加する賃上げ闘争のための合同事務局(のち春闘共闘委員会)が設置され,春闘は総評の公式方針となる。

春闘を欧米の賃上げ闘争と比較すると,(1)欧米の賃上げ闘争が産業別組織を主体としているのに対して,産業別組織を全体として結集して統一的な指導部による全国的規模の闘争として組織されること,また交渉は産別ではなく企業別であること(私鉄総連のような重要な例外もあるが),(2)欧米では各産業ごとに職種別の最低賃率の引上げをめざすが,春闘では各産業の平均賃金の引上げ(ベースアップ)を目標とすること,(3)欧米では賃上げ闘争は通常2~3年ごとの協約闘争として展開されるのに対して春闘は毎年繰り返されること,などに大きな特徴がある。

 また春闘では産業別ストライキが賃上げの武器とされるのであるが,日本では強力な産業別組合は少なく,実際には国労など公労協が実力行使の柱となった。しかし官公労にはストライキ権が認められていないため,実力行使それ自体が政治的性格を帯びた。また春闘の出発期においては日本の労働者のあいだには大きな賃金格差が存在しており,春闘の目的は単に賃金の平均水準を引き上げるだけでなく,格差の縮小を実現することにおかれ,これを実現する手段として統一的な賃金要求と妥結とともに労働組合は最低賃金立法の確立を政府に要求し,対政府要求がストライキの対象となったことも結果として春闘に政治的性格を帯びさせることとなった。

 経営者は春闘の成立期においては対決姿勢をとり,ベース・アップを認めず,賃上げは定期昇給にとどめるべきだという方針をとったほか,実力行使が長期化すると第二組合の育成にも努めた。このようなことがあって初期の春闘においては労使のみではなく政府をもまきこんだ紛争としての性格が強かった。

1960年の安保・三池闘争ののち,春闘は経済闘争としての性格を強め,〈ヨーロッパ並み賃金〉のスローガンが掲げられるようになった。1956年以降の経済成長率の高まりと60年以降の労働力不足傾向に消費者物価上昇の影響も加わり,経営者側も定期昇給をこえる賃上げを認めるようになり,この時期に春闘は定着した。実質賃金上昇率では前期と変わらなかったが,名目賃金上昇率はほぼ10%程度となる。64年に労働組合側は公労協の半日統一スト(四・一七スト)をかまえ,その結果,池田勇人首相と太田総評議長の会談が実現した。この会談では公共企業体の賃金決定は民間の賃上げに準拠するという原則が確認された。これは春闘による賃上げメカニズムの完成を意味していた。

 春闘による賃上げメカニズムは,まず戦闘力のある中堅労組群がストライキをかまえ,前年を上回る賃上げの相場を引き出し,これを支払能力のある基幹産業群に定着させ,つぎに中労委・公労委(〈労働委員会〉の項参照)の調停もしくは仲裁によってこの相場を確定し,さらに人事院勧告によって公務員の賃上げに反映させていくというものであった。加えて,労働力不足の条件のもとでは春闘相場は未組織の労働者にも波及し,日本の労働者全体の賃上げ基準を形成するものとなった。各労組はこのようなメカニズムのなかで賃上げの決定を行うことが有利となるから,65年以降には同盟系労組も含め大半の労組が春の時期の賃上げ決定に参加するようになった。65年以降の名目賃上率は年々上昇し,70年代初期には20%に達した。またこのメカニズムが未組織労働者を含めて全労働者規模で所得上昇の基準となると,その基準は労働者層だけでなく米価決定など自営業者等の所得上昇の基準ともなり,春闘相場は所得や消費需要の観点からも国民経済レベルでの重要な要素となった。

1960年代後半以降には春闘には新しい問題が発生する。欧米の賃上げ闘争の主力となるのは金属機械などの基幹産業労働組合であるが,日本では春闘の戦闘力を支える基幹産業労組はなかった。鉄鋼労連は1959年以降春闘に参加するが,この年に組合側の長期ストにかかわらず経営者側が一発回答を押し通して以来,同方式が定着し,また鉄鋼労連などがIMF-JCを結成し,67年にはJC春闘とよばれるような相場形成の主導力を発揮することとなるが,それは交渉力が強いためではなく,産業上の優位性に基づくものであった。このため,75年春闘以降経済停滞の段階に入り,中堅労組の戦闘力が発揮しにくくなると,春闘における実力行使はしだいに減少し,賃上げ率も低下する。76年以降の名目賃金上昇率は10%以下となり,実質賃金レベルでは1~3%程度にとどまった。

 また1970年以降になると,所得の上昇を背景に組合員の春闘への関心が低下する傾向もみられ,これに対処して,労働組合側は賃上げ以外の広範な生活上の要求を〈制度・政策要求〉として掲げるようになる。71年以降春闘共闘委員会が掲げた〈生活闘争〉がその例であり,また73年秋の第1次石油危機の翌年からは物価抑制,低所得者層の社会保障給付の底上げなど〈弱者救済〉を内容とする〈国民春闘〉のスローガンも掲げられた。75年以降の不況期には雇用政策の充実が春闘の主要課題となり,さらに77年以降には総評,同盟などナショナル・センターが共通して所得減税の実現を要求した。

 80年代に入ると,春闘を形成してきた総評の指導力の低下と民間先行の労働戦線統一の進行も加わり,実力闘争による賃上げという春闘の性格は転換した。
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百科事典マイペディア 「春闘」の意味・わかりやすい解説

春闘【しゅんとう】

毎年春に,産業別労働組合が統一的に行う賃金闘争。企業別組合の弱点を補強するため,産業別闘争により,好況産業の有力単産の賃上獲得額を社会的相場として波及させる方式をとる。日本労働組合総評議会(総評)の主導により,1955年民間8単産の共闘で開始,1956年公労協,1960年中立労働組合連絡会議(中立労連)も参加。事実上組織労働者の大半が結集し,日本の賃金変動の重要な要因として定着してきたが,近年,労働組合の組織率低下などの変化のなかで内容も変化してきた。連合は春季生活闘争と呼び名をかえ,日本経営者団体連盟(日経連)は春季労使交渉と呼んでいる。
→関連項目安定賃金太田薫賃金

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知恵蔵mini 「春闘」の解説

春闘

日本で毎年春頃に行われる労働条件の改善を要求する団体交渉のこと。「春季闘争」の略。毎年2月にまず大手企業が春闘を行ない、その年度の労働条件がどのように変動するかが決まる。その後、中小企業がその基準をもとに春闘を行ない、3月までにほとんどの企業の春闘は終了する。春闘の始まりは1955年、日本炭鉱労働組合、日本私鉄労働組合総連合会、合成化学産業労働組合連合、日本電気産業労働組合、全国紙パルプ産業労働組合連合会、全国金属労働組合、化学産業労働組合同盟、全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会の8つの労働組合組織が「共闘会議」を結成、賃上げ要求を行ったものとされている。74年には春闘史上最大のストライキを行い大幅な賃上げ獲得を成し遂げたが、翌年には日本経済との整合性が重要との見解が強くなり、以降「ストライキなし一発回答」「管理春闘」と言われる行動へとパターン化されていった。バブル崩壊後の日本経済の悪化や長引く不況に伴い、春闘は貧困解消や格差是正、雇用の適正化などを訴えるようになっている。

(2013-3-15)

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知恵蔵 「春闘」の解説

春闘

春季生活闘争」のページをご覧ください。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「春闘」の意味・わかりやすい解説

春闘
しゅんとう

毎年春季に大多数の労働組合が賃上げ要求などを掲げて共同歩調を取る闘争をいう。 1954年に太田薫合化労連委員長の5単産共闘提唱に端を発し翌年同労連・私鉄総連など8単産共闘会議で始動,56年から日本労働組合総評議会 (総評) の運動として定着発展した。中立労働組合連絡会議 (中立労連) や無所属組合も参加し,春闘共闘委員会→春闘共闘会議→国民春闘共闘会議と整備された連絡機関は,総評解散とともに消滅。総評の大半が加盟した日本労働組合総連合会 (連合) は「春季生活闘争」の呼称で展開している。 1970年代から賃上げのほか労働時間短縮,税制や年金など政策・制度面が重視され,また 80年代後半からは全国レベルの交通ストが激減するなど運動面も変化している。春闘賃上げは消費動向,企業経営を通じて国民経済成長に影響するところから,政府や経済界の関心も強い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「春闘」の解説

春闘
しゅんとう

1955年(昭和30)以降,春季に賃上げをめざして各労働組合が行う共同行動。同年,総評傘下など八つの単産が春季賃上げ共闘会議を結成して開始,57年からは春闘共闘委員会を設置して推進した。総評と対立する全労会議(のちの同盟)系の組合にも,春季に賃上げ闘争を組むものが広がった。さらに64年,公労協のストライキ計画が池田勇人首相と太田薫(かおる)総評議長の会談で収拾され,公労協賃金の民間準拠が原則となったことから,春闘は日本的な賃金決定方式として定着した。73年のオイルショック以降,総評は弱者救済を掲げて「国民春闘」を提唱,この間67年からはIMF・JC(現,金属労協)が春闘相場形成を主導した。89年(平成元)の連合発足後は,春季総合生活改善闘争を唱え,春闘を継承している。

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ASCII.jpデジタル用語辞典 「春闘」の解説

春闘

春の時期に労働組合が一斉に賃上げ、労働条件の改善に関する交渉を行なうこと。欧米では、産業別に強力な労働組合が存在し、それらが労働条件改善への闘争を繰り広げて成果を得てきた。だが、日本では企業ごとに労働組合が構成されており、賃上げ交渉での立場が弱い、という弱点があった。その弱点を各企業が毎年同時期に歩調をあわせることで補おう、という戦略的な側面を持つ。2月に、大手企業が春闘を行ない、その年度の労働条件がどのように変動するかが決まる。その後、中小企業がその基準をもとに春闘を行ない、3月までにほとんどの企業の春闘は終了する。バブル崩壊以降、春闘は賃上げ交渉というよりも「雇用維持」への交渉が中心となったが、不況のヤマを越えたといわれる近年では、賃上げ交渉に内容がシフトしてきている。

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人事労務用語辞典 「春闘」の解説

春闘

毎年春に各産業の労働組合が経営側に対し、一斉に賃上げ(ベースアップ)などの労働条件改善を要求する運動のことです。最近、日本労働組合総連合会(連合)は「春季生活闘争」、日本経団連は「春季労使交渉」と呼ぶようになりました。バブル崩壊後は賃上げが難しくなり、労組側の要求は雇用維持や労働時間の短縮などにシフトしています。
(2005/3/7掲載)

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世界大百科事典(旧版)内の春闘の言及

【公労協】より

…前身の公共企業体等労働組合協議会は1953年に結成され,公共企業体等労働関係法(公労法)が適用された,国労,全逓,全電通,全林野,動労,全専売,全印刷,全造幣,アル専の9組合が加わった。 公労協は1956年にはじまった春闘に参加し,60年の安保改定阻止闘争でも大衆動員の主力となり,6月4日,15日には統一ストの中心となった。翌61年春闘でははじめて公式にストライキの用語を使い,64年には半日規模の大規模なスト(四・一七スト)が準備された。…

【産業別統一闘争】より

…同一産業内の複数の労働組合が共同して行う運動で,おもに日本の労働組合運動について使われる用語。〈春闘〉もこれに含まれ,その闘争方式は〈春闘方式〉とも呼ばれる。 日本では労働組合が企業別に組織されているため,同一産業内に多くの組合があり,企業規模や経営状態によって活動に差異が生じやすい。…

【総評】より


[主要な運動]
 次に,結成期以後の総評の主要な運動を課題別にみておこう。まず,賃金闘争では,1955年に総評加盟の8単産によって春闘が始められた。これは企業別組合による賃金交渉があまりにも企業業績によって左右されてしまうという欠点をカバーするために,春の時期に産業別や全産業的に統一的な賃金交渉を組織しようというものである。…

【日本経営者団体連盟】より

…創立当時は労使関係が極度に荒れていて,経営者側は激しい労働攻勢にさらされていた。日経連は〈経営者よ正しく強かれ〉(設立宣言末尾の言葉)と経営権確立をモットーとして,その後も重要争議などを通じて経営者の意識統一に努め,1955年以来毎年春闘に経営者側へ指針を示した。70年から生産性基準原理(物価高騰防止のため賃金上昇率を労働生産性の伸び率の枠内にとどめること)を提唱し,75年以来毎年報告書で徹底を期している。…

【労働運動】より

… 戦後の労働運動は,敗戦から今日にいたるまで企業別組合をベースにして展開してきたにもかかわらず,時代によって運動の様相は転変してきた。やや大きな区切り方をすれば,(第1期)急激な組織化をてことする〈経営民主化〉運動の進展をみたのち,二・一ストの挫折を契機として運動の分裂・後退をみるにいたった時期(1945‐50),(第2期)サンフランシスコ体制の形成のもとで労働組合が再生しはじめ,春闘体制の形成をみた時期(1951‐60),(第3期)春闘体制の全面化にもかかわらず,民間大企業における能力主義管理のもとで,職場の労働運動が活力を失っていった時期(1961‐74),(第4期)石油危機のもとで〈管理春闘〉化が進展するなかで,民間大企業労働組合を軸とする戦線統一運動の進展をみるようになった時期(1975‐89),(第5期)新しいナショナルセンターとしての連合の成立をみ,〈総合生活闘争〉が進められるようになった時期(1989‐ ),およそ以上五つの時期に分けることができよう。
[第1期(1945‐50)]
 (1)日本は1945年8月,敗戦によってアメリカの占領下におかれることになったが,占領軍によって〈非軍事化・民主化〉政策が推進され,その一環として同年12月には労働者の団結権を日本の歴史上はじめて公然と認めた労働組合法が制定されるという状況のもとで,45年の秋以降,労働組合の結成が急激に進展し,争議も頻発するようになった。…

【労働組合】より

…統一闘争には,要求内容,交渉時期,妥結時期,妥結内容の統一を目ざし行動の統一(ストライキ)まで統制する統一闘争と,要求内容と交渉時期のみを調整する共同闘争とがある。一般に春闘における賃金交渉の場合には,統一闘争が目ざされている。また,これを行う交渉方式として,統一闘争に参加する加盟企業別組合の役員と経営者,またはこれに連合体役員,経営者団体役員が加わり,一つ場所に集まって団体交渉を行う集団交渉(連合交渉),企業別組合と企業経営者の団体交渉に連合体役員が参加する対角線交渉などが考案されてきた(〈団体交渉〉の項参照)。…

※「春闘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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