太田道灌(読み)おおたどうかん

精選版 日本国語大辞典 「太田道灌」の意味・読み・例文・類語

おおた‐どうかん【太田道灌】

室町中期の武将。歌人。扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事。資清(すけきよ)の子。名は持資(もちすけ)、のち資長。江戸城などを築いて関東一帯に勢力を広めたが、山内・扇ガ谷両上杉氏の対立のため上杉顕定の中傷により主君定正に暗殺された。歌集に「花月百首」がある。法名春苑道灌。永享四~文明一八年(一四三二‐八六

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デジタル大辞泉 「太田道灌」の意味・読み・例文・類語

おおた‐どうかん〔おほたダウクワン〕【太田道灌】

[1432~1486]室町中期の武将。名は資長すけなが上杉定正の執事となり、江戸城を築城。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「太田道灌」の意味・わかりやすい解説

太田道灌 (おおたどうかん)
生没年:1432-86(永享4-文明18)

室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は,丹波国桑田郡太田郷の出身といい,資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ,1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が,古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに,顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り,78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略,80年景春の乱を鎮定した。この間,関東の在地武士を糾合して戦った道灌の名声は高まったが,かえって顕定・定正の警戒するところとなり,86年定正により暗殺された。道灌は兵学に通じるとともに学芸に秀で,万里集九(ばんりしゆうく)ほか五山の学僧文人との親交が深かった。
執筆者: 道灌が鷹狩りに出て雨に遭い,蓑を借りようとしたとき,若い女にヤマブキをさし出され,それが〈七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき〉という古歌(《後拾遺集》雑)の意だと知り,無学を恥じたという逸話は《常山紀談》(湯浅常山著,元文~明和ころ成立)や《雨中問答》(西村遠里著,1778)等に記されて著名。この話をもじって1833年(天保4)刊《落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)》(初世林屋正蔵著)中に現在伝えられる落語《道灌》の原形ができあがった。歌舞伎では1887年3月東京・新富座初演《歌徳恵山吹(うたのとくめぐみのやまぶき)》(河竹黙阿弥作)がこの口碑を劇化,賤女おむらは道灌に滅ぼされた豊島家の息女撫子で,父の仇と道灌に切りかかる趣向になっている。現在の新宿区山吹町より西方の早大球場,甘泉園のあたりを〈山吹の里〉と通称し,戸塚町面影橋西畔に〈山吹の里〉の碑が立てられ,その旧跡とされている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太田道灌」の意味・わかりやすい解説

太田道灌
おおたどうかん
(1432―1486)

室町中期の武将。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。父は資清(すけきよ)。道灌は入道名。諱(いみな)について、系図は初め持資(もちすけ)、のち資長(すけなが)と改めたと伝えるが、いずれも確証はない。有名な江戸築城は1456年(康正2)に開始、翌年4月に完成と伝えられる。また、この年に父の指導で岩槻(いわつき)、河越(かわごえ)両城の築城にも着手したといわれる。65年(寛正6)3月に上洛(じょうらく)したといわれるが定かでない。文明(ぶんめい)(1469~87)初年ごろには、道灌父子は実力者として扇谷上杉氏にかわって相武の事実上の支配を行っていたが、その活躍がとくに顕著になるのは、73年(文明5)扇谷上杉政真(まさざね)が古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)との戦いで敗死した五十子(いかつこ)合戦ののち、扇谷上杉氏を定正(さだまさ)が継いでからである。76年には定正の命を受けて駿河(するが)守護今川氏の内紛に介入、その在陣中に長尾景春(かげはる)の反乱が起こると、内紛を収拾し江戸に帰り、これより80年にかけて定正、山内(やまのうち)上杉顕定(あきさだ)を助けて、景春方と三十余度も戦いを交えた。道灌は歌人としても名高く、漢詩文の素養もあったが、道灌作といわれる書籍には偽書が多い。文化人としてのみならず、「足軽之軍法」を編み出した軍法師範とされるなど、優れた兵術家、築城家、傑出した政治家でもあった。しかしその終末は、主君定正の糟谷(かすや)の館(やかた)(神奈川県伊勢原(いせはら)市)に招かれ、文明18年7月26日ここで謀殺された。彼は「当方(扇谷上杉家)滅亡」といって絶命したという。法名春苑道灌。墓は上糟谷の洞昌院に、また下糟谷の大慈寺(だいじじ)には首塚といわれるものがある。

[佐脇栄智]

『前島康彦著『太田道灌』(1956・太田道灌公事蹟顕彰会)』『勝守すみ著『太田道灌』(1966・人物往来社)』『前島康彦編著『太田氏の研究』(1975・名著出版)』


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朝日日本歴史人物事典 「太田道灌」の解説

太田道灌

没年:文明18.7.26(1486.8.25)
生年:永享4(1432)
室町時代の武将で扇 谷上杉氏の家宰。資清(道真)の子。通称源六郎,道灌は入道名。実名は初め持資,のち資長と改めたと伝えるが,いずれも確証はない。官途は左衛門大夫,任官は享徳2(1453)年,康正1(1455)年に家督を継いだといわれる。有名な江戸築城は同2年開始,翌長禄1(1457)年4月完成と伝えられる。またこの年,父の指導で岩槻・河越両城の築城にも着手したといわれ,上洛は寛正6(1465)年3月といわれるが定かではない。文明1(1469)年ごろには,道真・道灌父子は実力者として,扇谷上杉氏に代わって相模・武蔵両国を事実上支配していたようであるが,その活躍が顕著になるのは,同5年の五十子合戦ののち上杉定正が扇谷上杉家を継いでからである。同8年初め,駿河守護今川義忠の跡目を巡って今川氏親と小鹿範満が争った際,定正の命で駿河に赴き,相手方の氏親を支持する北条早雲(伊勢宗瑞)と共にこれを収拾。駿河在陣中に江戸では長尾景春の反乱が起きるが,10月に江戸に帰って以来同12年にかけて,定正と山内上杉顕定を助けて景春方と三十余度も戦いを交えた。出家はこの間の同10年2月ごろのこととみられている。 歌人としても名高く漢詩文の素養もあったが,道灌の作とされる書物には偽書が多い。また道灌には数多くの真偽不明の逸話が伝わるが,山吹の花一枝に添えた少女の歌が理解できず己の不明を恥じたといわれる話は,その最も有名なもののひとつ。「足軽之軍法」を編み出した軍法師範ともいわれ,優れた兵術家,築城家,傑出した政治家でもあった。しかしその最期は,主君定正の糟谷の館(伊勢原市)に招かれて謀殺されるという不運なものであった。墓は上糟谷の洞昌院にある。文武兼備の実力者故に主君に殺された非運な武将といえよう。<参考文献>勝守すみ『太田道灌』

(佐脇栄智)

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百科事典マイペディア 「太田道灌」の意味・わかりやすい解説

太田道灌【おおたどうかん】

室町時代の武将。名は資長(すけなが),道灌は法名。扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣。1457年江戸城を築く。1476年の山内(やまのうち)上杉家の内紛を鎮圧したが,かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言(ざんげん)により,主君定正のため謀殺された。足軽軍法に長じ,また和漢の学や詩歌にもすぐれたという。
→関連項目岩槻[市]江戸川越城青松寺万里集九日枝神社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太田道灌」の意味・わかりやすい解説

太田道灌
おおたどうかん

[生]永享4(1432)
[没]文明18(1486).7.26. 相模
室町時代中期の武将。資清の子。幼名は鶴千代麿。源六郎と称し,持資,のち資長と改名。左衛門大夫,備中守,正五位下に任じ,入道して春苑道灌と号した。父資清は武蔵国都築郡太田郷に住み,扇谷上杉氏に仕えた。康正1 (1455) 年父の跡を継ぎ,のち上杉定正の執事となり,長禄1 (57) 年江戸城を築いて居城とした。文明8 (76) 年,山内上杉憲定の家臣長尾景春が乱を起すと,憲定,定正を助けてこれを平定し,主家の隆盛に貢献した。しかし,定正は,扇谷上杉氏の勢力伸長を快しとしなかった憲定や越後の上杉房定の讒言を真に受け,相模糟屋の館で道灌を暗殺した。法諡は大慈寺殿心円道灌居士。道灌は軍事に通じ,特に農兵を組織的に動かすこと (足軽軍法) にすぐれていた。また文学を好み,和歌にも長じていた。文明6年には江戸城で歌合せを,同 17年には江戸城静勝軒に定正を招き和歌会を,また同年,美濃の詩僧万里集九を江戸城に滞在させ詩歌会を開いていることから,その造詣の深さが偲ばれる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「太田道灌」の解説

太田道灌
おおたどうかん

1432~86.7.26

室町時代の関東の武将。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。資清の子。実名は資長(すけなが)か。入道して道灌。1456年(康正2)江戸築城を開始,岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の実力者となる。76年(文明8)山内上杉氏の被官長尾景春が上杉氏にそむくと,以後数年にわたり関東各地で景春方と戦う。これにより扇谷家を山内家に匹敵するまでに成長させたが,86年相模国糟屋(かすや)(現,神奈川県伊勢原市)の主家上杉定正邸に誘い出されて殺害された。扇谷家の内部対立と,扇谷家の台頭を恐れた山内家の策動といわれる。文化人としても知られ,禅僧万里集九(ばんりしゅうく)との交遊は有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「太田道灌」の解説

太田道灌 おおた-どうかん

1432-1486 室町時代の武将。
永享4年生まれ。太田資清の子。康正(こうしょう)元年家督をつぎ,上杉定正の家宰となる。3年江戸城を完成させ,居城とする。文明8年におきた長尾景春の乱を12年に鎮定。軍法師範と称され,また歌人としても知られ,万里集九(ばんり-しゅうきゅう)らとまじわった。文明18年7月26日定正に暗殺された。55歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。幼名は鶴千代。名は資長。通称は源六郎。
【格言など】かかる時さこそ命の惜しからめかねてなき身と思ひしらずば(「常山紀談」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「太田道灌」の解説

太田道灌
おおたどうかん

1432〜86
室町中期の武将
関東管領家扇谷 (おうぎがやつ) 上杉の家宰太田資清の子で,名は資長 (すけなが) 。上杉定正の執事となり,1457年江戸城を築いて居城とした。扇谷・山内 (やまのうち) 両上杉家の対立激化にあたって,主家のために大いに武功をたてながら,山内の策謀により主君定正に殺された。学問・文学にも関心深く,五山の僧と交わり,和歌・連歌に長じた。

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世界大百科事典(旧版)内の太田道灌の言及

【伊勢原[市]】より

…大山はもと修験道の道場であったが,明治初年の神仏分離により阿夫利(あふり)神社と大山(たいさん)寺に分かれた。大山道に沿って太田道灌の墓がある。道灌は1486年(文明18)ここで殺されたという。…

【江戸城】より

…武蔵国江戸の地に建設された城郭。江戸城の発端は,12世紀初めごろ江戸重継が,荏原郡桜田郷の北東部,江戸湾に臨む台地上に設けた居館で,その場所は近世江戸城の本丸台地上と推定されている。江戸氏の子孫が多くの庶流に分かれて勢力が衰えたあと,室町時代の1457年(長禄1)に関東管領扇谷上杉氏の家宰太田資長(道灌)がこの地に築城した。道灌の江戸城には子城,中城,外城の3郭があり,各郭は周囲に土塁を巡らし,郭と郭の間には空濠を設けた。…

【北条早雲】より

…彼の駿河下向は1469年(文明1)とみられ,駿河守護今川義忠の室であった妹をたよって今川氏に身を寄せ,石脇城を居城としたと推測される。76年の義忠戦没後の今川家内紛では,竜王丸(氏親)支持の側に立ったが,このとき範満支援のため扇谷上杉定正から派遣されてきた太田道灌と出会い,両者の調停によって内紛は一応収拾され,これより彼は歴史に登場することになる。早雲,道灌ともに45歳であった。…

※「太田道灌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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