日本大百科全書(ニッポニカ) 「太田氏」の意味・わかりやすい解説
太田氏
おおたうじ
(1)武蔵国(むさしのくに)の国人(こくじん)。清和源氏(せいわげんじ)。源頼政(みなもとのよりまさ)の子孫が丹波国(たんばのくに)桑田(くわた)郡太田(京都府亀岡市)に住し、資国(すけくに)のときに太田氏を称した。1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王に従って上杉重房(しげふさ)とともに鎌倉に移る。のち相模(さがみ)、武蔵に所領を有し、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に仕える。室町時代中・後期の資清(すけきよ)・資長(すけなが)(道灌(どうかん))父子のころがもっとも優勢で、江戸(東京都)、岩槻(いわつき)(埼玉県さいたま市)、河越(かわごえ)(同県川越市)の城を築き、扇谷上杉氏の勢力伸長に努めた。その後、江戸と岩槻の2家に分かれたが、ともに小田原北条氏のために城を追われた。江戸時代には、江戸太田氏系が遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川(かけがわ)藩主となり、明治に至る。
(2)鎌倉幕府、室町幕府の問注所(もんちゅうじょ)執事家。初代問注所執事の三善康信(みよしやすのぶ)が、備後国(びんごのくに)(広島県)世羅(せら)郡大田荘(おおたのしょう)の地頭職(じとうしき)を与えられ、その子康連(やすつら)のときに太田氏を称す。康連は1225年(嘉禄1)の評定衆(ひょうじょうしゅう)設置とともにその一員となる。のち問注所執事も兼ね、子孫もこの要職にあった。鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏(あしかがたかうじ)に仕え、室町幕府の問注所執事となり、子孫は評定衆、引付衆(ひきつけしゅう)などを勤めた。
[池上裕子]