改訂新版 世界大百科事典 「孔子批判」の意味・わかりやすい解説
孔子批判 (こうしひはん)
中国,孔子および儒教に対する批判運動。前136年,漢の武帝が儒教を国定の教えとしていらい1911年に辛亥革命で清朝が滅亡するまで,儒教の祖である孔子は,中国における最高の人格として尊重されてきた。その間,後漢の王充,明の李卓吾など,孔子の権威に異を唱えた思想家がなかったわけではないが,その権威は2000年間,ゆるぎないものとして存在した。孔子あるいは儒教に対する批判的な動きは,1840年のアヘン戦争以降,中国の封建的王朝体制が崩壊してゆくなかで,ようやく歴史の表面にあらわれてくる。1850-64年,南中国を支配した農民反乱,太平天国では,村の私塾におかれた〈大成至聖先師孔子〉という位牌がうち壊され,孔子が祖述したとされる儒教経典を〈妖書邪説〉とみなして読むことを禁じる布告が出されるなどした。だが,太平天国が命脈を終えるとそうした動きは中断,本格的批判運動は中華民国成立以後にもちこされた。
1913-15年,陳煥章,康有為ら保守派の学者の音頭によって,孔子の教えを国教にしようとする孔教運動がおこり,袁世凱の帝制がさけばれるなかで,新文化運動が開始される。〈民主と科学〉を旗じるしとする雑誌《新青年》を中心に,中国の社会と文化を改革するためには,中国の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。陳独秀は〈孔子の道と現代生活〉など多くの文章で,孔子の思想が封建的なものであって民主主義とは両立しえないと主張し,呉虞は〈儒教の害毒は洪水猛獣〉のごとくはなはだしいものだと痛烈に批判し,魯迅は,儒教は〈人が人を食う〉教えであるとのべて《狂人日記》のなかで,人を食ったことのない(儒教に毒されぬ)子供を救え,と書いた。このほか,胡適,李大釗(りたいしよう),周作人,銭玄同,易白沙,高一涵など多くの人々が儒教の打倒を論じた。
そして中国では1973年夏から約3年間,人民大衆を広くまきこむ大規模な孔子批判の動きが勃発した。それは当時,文化大革命の裏切者と評された林彪と孔子とを合わせて批判しようとした批林批孔運動である。そこでは,孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルが貼られた。孔子の呼び名も,先生を意味する〈子〉をとり去り〈孔丘〉と呼びすてされ,さらには〈孔老二(孔家の次男坊)〉という蔑称があたえられた。と同時に,孔子批判を現代の歴史に適用しようという政治方針のもとで,孔子を崇拝したといわれる林彪もまた〈反革命のイデオローグ〉だと批判され政治的に抹殺されたのである。だが毛沢東の死後,江青夫人らいわゆる四人組が逮捕されると,この批林批孔運動は学術的価値が皆無の〈影射(あてこすり)史学〉であった,と全否定されてしまった。82年以降の中国では,孔子は中国における〈すぐれた教育者〉であったとして再評価されている。
執筆者:河田 悌一
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