改訂新版 世界大百科事典 「孝公」の意味・わかりやすい解説
孝公 (こうこう)
Xiào gōng
生没年:前381-前338
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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前381~前338(在位前361~前338)
戦国時代の秦の君主。商鞅(しょうおう)を用い,国政改革,国力の充実を図りながら,前350年雍(よう)から咸陽(かんよう)に遷都,前343年東方諸国の覇者となり,漸次東方に進出して,始皇帝の中国統一の基礎を築いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…当時中央を占め,その勢力範囲に周王室をも包摂していた韓(河南省宜陽,のち河南省禹県,河南省新鄭)は,四方を強国に囲まれ,強大になることはなかった。 このような状況に対し,西方にあった秦は前4世紀前半には魏に奪われた陝西東部の回復に着手し,孝公(在位,前361‐前338)は衛から亡命してきた商鞅を登用し,法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を行い,さらに都を雍(陝西省鳳翔)から東の咸陽(陝西省咸陽)にうつして東進の態勢を整え,魏の領内に侵攻した。さらに韓の西部を攻めるとともに,漢江を下って楚に攻撃を繰り返した。…
…文公(前765‐前716)のときには,汧水(けんすい)と渭水が合流する付近に都を置いたが,勢力の拡大とともに春秋時代には平陽(陝西省岐山県南西),雍(よう)(陝西省鳳翔県南)に置かれた。なお首都はその後,涇陽(けいよう)(陝西省涇陽県),櫟陽(れきよう)(陝西省臨潼県付近)と移り,最終的には前350年(孝公12)に咸陽を都と定め,これが秦滅亡まで首都となる。 春秋時代における秦は,他の中原の諸侯国に比べて後進国に属していたが,それが飛躍的に発展拡大したのが9代目の君主穆(ぼく)公(前659‐前621)のときである。…
※「孝公」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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