安原村(読み)やすはらむら

日本歴史地名大系 「安原村」の解説

安原村
やすはらむら

[現在地名]塩江安原下やすはらしも安原上東やすはらかみひがし上西かみにし安原上やすはらかみ、香川町安原下

香川郡の最南端の村。南は阿讃山脈を境に阿波国、集落は北西流する香東こうとう川沿いに開ける。相栗あいぐり峠を越えて阿波に至る相栗道が通り、交通上の要地であった。南北朝期には「安原城」「安原要害」といわれた由佐氏配下の城が築かれていた。観応の擾乱で足利尊氏方についた守護細川顕氏は、観応二年(一三五一)四月一五日に「安原、鳥屋、岡」の要害警固をいっそう強化するよう由佐弥二郎に命じ(「左兵衛尉某奉書写」由佐家文書)、七月七日には弥二郎の「安原城」警固に対し顕氏は感状(写、同文書)を、また八月一七日には安原城内の軍忠によって井原いのはら庄内鮎滝あゆたき(現香川町)の領家職を預けている(「細川顕氏預ケ状写」同文書)。貞治四年(一三六五)四月二日には安原で合戦があった(同年四月二三日「細川頼之感状写」同文書)。文安三年(一四四六)二月一六日の由佐助政に宛てた「安原山」などの細川勝元安堵状(同文書)が出されるなど、室町時代は細川氏配下の有力国人由佐氏の所領であった。なお旧浄土寺蔵の応永二〇年(一四一三)一二月一五日銘の鰐口銘文に、「讃州安原庄樺河」とある。「讃岐国大日記」によると天正一三年(一五八五)六月、安原山の百姓仙石秀久に背き一揆を起こし、一〇〇余人が斬首されたという。同一五年以後の八月一〇日の書状(由佐家文書)で、生駒一正は由佐長盛に対し一ヵ月に一〇〇石積一艘分の枌板調進を命じている。

寛永国絵図には安原郷として高付され高六一四石余、郷内に塩江・岩符いわぶ(部)・相(鮎)滝・音川おんがわ東谷ひがしだになど二三の小地名がある。文化五年(一八〇八)の郡方御用手元控(別所文書)には安原庄の属村に川内原かわないはら(現香川町)・安原村・東谷村を記し、天保九年(一八三八)の御領分明細記には右村に加え、当村枝村の細井ほそい村・内場ないば村・椛川かばがわ村・柞野くにぎの村を記す。寛永一九年(一六四二)の高松領小物成帳では綿一貫八八五匁二分、枌四九六荷四八〇枚、漆代銀二一匁三分、茶代米一石五升六合とある。


安原村
やすはらむら

[現在地名]佐久市安原

平尾ひらお(一一五五・五メートル。平尾富士ともいう)の西南麓にあり、東は香坂こうさか村、南西は新子田あらこだ村、北は下平尾しもひらお村に接する比較的高燥平坦の地。

嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に六番五月会分として「右頭、大井庄内安原・香坂郷大井又三良入道」とみえ、寛正四年(一四六三)五月の諏訪御符礼之古書にも五月会として「右頭、安原、源光久、御符礼三貫三百文」とある。

村域のほぼ中央には大規模な横穴式円墳安原大塚古墳ほか数基の古墳がある。村内を北から南へ貫流して志賀しが川に入るかすみ川沿いには、条里的遺構とみられる耕土の深い肥沃な水田が分布し、延喜式内社と伝える英多えた神社が東部山寄りにあって、この地域の古さをうかがわせる。


安原村
やすはらむら

[現在地名]大山町安原

鶴田つるた村の東にあり、北を妻木むき川が西流する。村名は沼沢地と雑木林の地であることにちなむといい、また当村北野きたの神社の古文書縁起によると、菅原道真の孫の景行が筑紫国からの帰りに海難に遭って上陸、しばらく当地の原の森に「安鎮」していたことにちなむと伝える(大山町誌)。集落はもと淀江よどえ(現淀江町)に近い南西の地にあったが、天正年間(一五七三―九二)兵火に遭ったのち現在地に移ったといわれる(同書)


安原村
やすはらむら

[現在地名]日野町安原

北流する日野川左岸の段丘に位置し、北東は津地つち村。集落は山麓に東面し、日野川との間に水田がある。村内を日野往来の左岸路が通る。拝領高は五〇石余、本免は五ツ三分。福田氏の給地であった(給人所付帳)。寛政一一年(一七九九)と翌年には再三の御救米給付に対し国恩冥加米として生高八七石余の二分を鳥取藩に拠出した(在方諸事控)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九〇石余、竈数一六。「伯耆志」では林一二町八反余、家数一五・人数七七。藪役三匁・川役一匁が課されていた(日野郡史)。明治二年(一八六九)には村内の安原山で鉄山稼を行っていた当村の吉右衛門が、鉄相場の下落を理由に休業している(「口日野郡大庄屋鉄山方内存書」丸山区有文書)


安原村
やすはらむら

[現在地名]香川町安原下やすはらしも塩江しおのえ町安原下・安原上東やすはらかみひがし上西かみにし安原上やすはらかみ

香東こうとう川沿いに位置する香川郡最南端の村で、集落は同川左岸の鮎滝あゆたき竹本たけもと川流域の下倉などにある。


安原村
やすはらむら

[現在地名]郡山市安原町

阿久津あくつ村の南、阿武隈川右岸の平地に立地。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 二百文 安原」とみえ、紀州熊野速玉はやたま社に年貢二〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)にも同内容でみえる。


安原村
やすはらむら

[現在地名]福井市安原町

東郷とうごう町の東に延びた東郷街道沿いの町場で、中世は安原庄の中心の地。小路しようじ村を南北に分断するような形で、地籍が錯綜する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「安原庄」(高二九六八・九七三石)のうちに含まれる。正保郷帳は「小路村安原共ニ」と記し、田方二四七石余・畠方一九三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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