東谷村(読み)ひがしだにむら

日本歴史地名大系 「東谷村」の解説

東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]香川町東谷

香東こうとう川の東岸に位置し、西から南は安原やすはら村。周囲を山に囲まれた東西に長い盆地を占める。集落は岩崎いわさき堂奥どうおく下谷しもだに落合おちあい森窪もりくぼなどにあり、香東川の支流天満てんま川が流れる。寛永国絵図に村名がみえ、安原郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高二八四石余、同一九年の小物成は綿二八五匁(高松領小物成帳)。天保九年(一八三八)の御領分明細記では五三八石余で、新田開発などで生産高が増加したと考えられる。元文五年(一七四〇)の人数は六〇四人(「郡別村々人数留」金倉寺文書)。山間部の村なので山分とされ、本村ほんむら(六ツ二歩)北山きたやま(三ツ八歩)下谷しもだに(二ツ八歩)小田おだ(四ツ五歩)骨谷ほねだに(五ツ二歩)の免場からなりたっていた(嘉永二年「土免御定内免別帳」別所文書)


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]金城町長田ながた

周布すふ川支流の長田川沿いに位置し、北および西は波佐はざ村、南西は大井谷おおいだに村。安芸国との国境にあたり、大潰おおづえ(九九七・五メートル)南方の傍示ぼうじ峠を越えて安芸国荒神原こうじんばら(現広島県芸北町)に抜ける石見安芸道が通る。「吾妻鏡」暦仁元年(一二三八)五月一一日条に「石見国長田保」とみえ、左衛門尉坂上明定の遺領を継いだ子息左兵衛尉明胤に安堵されており、この長田保を当地に比定する説があるが(荘園志料)、不詳。近世の領主の変遷は乙明おとあけ村と同じ。


東谷村
ひがしたにむら

[現在地名]かつらぎ町東谷

紀ノ川中流域北方、東西に連なる葛城(和泉)山脈の南斜面上に位置する。北は七越ななこし峠を経て和泉国。中世は高野山領四郷しごうに属したと考えられる。慶長検地高目録では村高三〇九石余、小物成二・九一六石。天保郷帳に東谷村はもと東谷村・神野こうの村・堀越ほりこし村・中畑なかはた村・大久保おおくぼ村五ヵ村であったと注があり、神野・堀越・中畑・大久保は小名として残る。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、当時の村高は三一九石余、家数一一六、人数五八〇、井手四。なお寛文二年(一六六二)南のたき村との間に山論があった(→滝村

当村周辺の山は古くより修験者の行場として開かれていた。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]本耶馬渓町東谷

山国やまくに川支流の跡田あとだ川上流部東谷川沿いの散村。東は地蔵じぞう峠、西は落合おちあい村・西谷村、北と南は山。承久二年(一二二〇)一二月二七日の関東下知状写(益永文書)に、宇佐大宮司公仲および兼直が押領したという地頭職のなかに「椿庄重末」がみえ、東谷の字椿つばきのことと思われる。小倉藩元和人畜改帳には、東谷孫介手永に三筆に分けて「東上津野村」合計高六一二石余とあり、うち二四石余は惣庄屋東谷孫助の知行で、家数一一二(うち惣庄屋一・百姓二〇・名子二七・牢人一・寺家二)・人数二六〇、牛一七・馬一五とある。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]越路町東谷

渋海しぶみ川を挟んで不動沢ふどうさわ村の東の谷間の荒瀬あらせ阿蔵平あぞうびら山宿やまじゆくいけひらの四集落からなる。荒瀬は渋海川河岸にあり、東谷の入口に位置する。正保国絵図に三島郡「荒瀬村」高八五石余がみえる。阿蔵平は村の中央に位置し、「安蔵平村」高二一石余がみえる。山宿は村の中心集落で、「東谷村」高八〇石余の地にあたり、柏崎と小千谷おぢやを結ぶ街道の宿場であり、山宿と通称。池ノ平は越路原こしじはら丘陵にあり、山宿の庄屋五十嵐家の所属の地で、同家の開拓による。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では東谷村一村で、高二五三石六斗余のうち山高三石余・青苧高六斗余・漆高一石六斗余。


東谷村
ひがしやむら

[現在地名]吉井町東谷

しお村の南西、東は大沢おおさわ村、西は甘楽かんら天引あまびき(現甘楽町)、南は上日野かみひの(現藤岡市)と接し、字大判地だいはんじから東流する渓流が字落合おちあいで大沢川と合して東部を北流する。南部は山地が広がる。寛永二年(一六二五)当村一三一石余が倉橋内匠助に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方三一石七斗余・畑方九九石二斗余、旗本倉橋領。江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(酒井文書)によると田五反余・畑二四町二反一畝余、うち上・中畑が一二町五反余、林七町一反五畝余。元禄一四年(一七〇一)四月の覚(同文書)によれば、桑の取扱について他人の桑は取らぬこと、枯桑は日限のほかは伐らぬこと、違犯者は科銭一貫文をとることを議定している。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]佐伯町小坂こざか

王子おうじ川上流域南方にあり、西は西谷村、東は田中たなか村、南は酌田しやくだ(現赤磐郡熊山町)。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄東谷村とある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二四五石余。「備陽記」では田畠一四町九反余、家数二三・人数一二七、岡山城下京橋きようばしまで道程六里一〇町、池四。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高三〇七石余、家老土倉四郎兵衛の給地。田高一七六石余・一一町二反余・物成一〇二石余、畑高五〇石余・三町八反余・物成二六石余、開田畑六反余・新開畑四歩余、家数一七、うち本村一六・五明二・小池こいけ三・当貫一(数値は合わないが史料のまま)、すべて寺山てらやま村の本久ほんきゆう寺檀家、人数六一、牛一二、猟師鉄砲一、宮一(園崎大明神)、石橋一、池四、宮林五畝・百姓自林三町余・入会野山八町余、高札場一(三枚立)、笊振商人一。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]加茂町東谷

東は砂子原すなごはら村・新宮しんぐう村、西は岩倉いわくら村・猪尾いのお村。安芸への道が村の北方を佐々布さそう(現宍道町)から当村へ通じる。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高四九九石余、寛文四年(一六六四)の本田高四七〇石余・新田高九石余。「雲陽大数録」では高四九〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数四二一(「大原郡宗門改」加茂町誌)。櫨畑は文化年中(一八〇四―一八)には一反三畝余あった(加茂町誌)。寺子屋開設は享和年間(一八〇一―〇四)で、神官が七名余に習字・算術・読み書きを教えていた(雲藩職制)。木工彫刻の名人といわれた梶谷東谷軒は仏師を志し、若い頃京都へ出て、のち松江で小林如泥の弟子になった。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]婦中町東谷

山田やまだ川支流の辺呂べろ川の上流渓谷に位置し、西は鶚谷みさごだに村、北は吉住よしずみ村。地名の由来は方位によると考えられる(婦中町史)正保郷帳では高九五石余、田方六町一反余・畑方一反余。享保六年(一七二一)の高一一四石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高一一四石余・定免三ツ六厘、新田高五四石余・平均免八歩七厘余、小物成は山役一一匁(高物成品々手鏡)。水請高三六石余の田堤がある(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)


東谷村
ひがしたにむら

[現在地名]上野市東谷

鍛冶屋かじや村の南。宝谷ほうこく観音寺(真言宗豊山派)本尊の木造阿弥陀如来坐像(像高八七・九センチ、国指定重要文化財)は藤原末期の作で、古山ふるやま地域の長福ちようふく(市場寺)蓮徳れんとく寺などとほぼ同時期の建立と思われる。明暦四年(一六五八)古検を改め、本高二一二石、平高四八〇・八八石で、うち忍田平左衛門の給地二〇石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数一五〇、人口二五四、馬四、牛九で、社寺は白山権現・八王子、観音寺(宗国史)


東谷村
ひがしやむら

[現在地名]八日市場市東谷

上谷中じようやなか村の東に位置し、平坦な低地に立地する。正保二年(一六四五)の成箇郷帳并浮役勘定目録(渡辺家文書)に村名がみえ、高四六石余の取米九石余、うち七石余を米納、残りは永七五〇文を納めた。ほかに浮役六〇〇文がある。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では旗本山高領一五七石・同竹田領七〇石、東谷組に属した。この相給のまま幕末に至る。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]日吉町字四ッ谷よつや

大堰おおい川支流田原たわら川の流域に位置する村で、上流にあたる東は佐々江ささえ村、北ははら(現北桑田郡美山町)、西は大谷おおたに村・海老谷えびだに村である。人家は田原川の両岸に集まる。園部藩領。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は八五石余であるが、天保郷帳では二三八石余と四倍増。


東谷村
とうやむら

[現在地名]宇都宮市東谷町

北を中島なかじま村に接する平坦地で、西部に上三川かみのかわへの道が南北に貫通し、東西に雀宮すずめのみやから真岡もおかへの道が抜ける。近世初期より宇都宮藩領。慶安郷帳に田方三六〇石余・畑方一二〇石余とある。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では藁縄干葉納高三五一石余、山家萱付馬割人足勤高青草勤高五〇七石余、堰川除人足勤高五一一石余。享保元年(一七一六)の雀宮宿助郷高四六五石(「雀宮宿助郷帳」県立図書館蔵)


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]和田山町東谷

和田山村の北西、円山まるやま川左岸に位置する。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高二七〇石余。当初は出石藩領で、寛文四年(一六六四)の小出吉英領知目録(寛文朱印留)に村名が記される。延宝元年(一六七三)から旗本小出(出石藩主英安の弟英直)領となり、元禄郷帳でも同領。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙および天明八年(一七八八)の高村附邑名控では高二三三石余。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]南条町東谷

北陸街道から、連光坊れんこうぼう山北方の谷筋を西に入った谷口にある。北西は清水しみず村、南東は西大道にしだいどう村。脇本わきもと庄五ヵ村の一。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「西脇本東谷分」とみえ、村高五〇〇・五七石とある。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領となり、明和元年(一七六四)三河国西尾藩領となった。


東谷村
とうやむら

[現在地名]山方町照山てるやま

蛇行する久慈川の東北に位置し、四方を山に囲まれる。西は小貫おぬき村。「新編常陸国誌」の東谷村の項に「寛永十八年小貫村ヨリ分レテ一村トナル」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「東谷村」とみえ、村高二四六・七四三石、田方九四・三九九石、三ツ六分、畠一五二・三四四石、三ツ取と記され、元禄郷帳にも「東谷村」とみえる。


東谷村
ひがしだにむら

[現在地名]名和町名和

坪田つぼた村の南東、東谷川(名和川支流)流域の谷間に位置する。拝領高一二五石余、本免五ツ一歩。給人所付帳によると内海氏の給地があった。竹運上銀五匁四分が課せられていた(藩史)。宝永七年(一七一〇)の汗入郡郷庄人家等改(名和町誌)によれば家数八・男女各三〇、牛七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android