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安達盛長 あだちもりなが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安達盛長
あだちもりなが

[生]保延1(1135)
[没]正治2(1200).4.26.
鎌倉幕府の御家人。上野国奉行人。頼朝の挙兵以来側近として活躍。頼朝没後出家。法名は蓮西。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

安達盛長 あだち-もりなが

1135-1200 平安後期-鎌倉時代の武将。
保延(ほうえん)元年生まれ。源頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の娘婿。頼朝の伊豆(いず)配流のときからの側近で,上野(こうずけ)奉行人,三河守護を歴任した。頼朝の死後出家するが,源頼家が将軍につき,重臣合議制ができると重臣のひとりとなった。正治(しょうじ)2年4月26日死去。66歳。通称は藤九郎。法名は蓮西。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

安達盛長

没年:正治2.4.26(1200.6.9)
生年:保延1(1135)
平安末・鎌倉前期の武将。鎌倉時代の有力御家人安達氏の祖。『尊卑分脈』は藤原北家魚名流の小野田兼盛の子とするが,信憑性に乏しい。源頼朝の乳母比企尼の婿であったことから,治承4(1180)年の挙兵以前より頼朝の側近くに仕えた功臣。上野国(群馬県)の奉行人や三河国(愛知県)の守護を務める。正治1(1199)年,頼朝の死により出家して蓮西と号したが,同年組織された宿老会議のメンバーに選ばれ,さらに源頼家の補佐役であった梶原景時の弾劾にも積極的に関与するなど,御家人勢力の中核のひとりであった。<参考文献>安田元久『鎌倉幕府―その政権を担った人々―』

(三田武繁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

あだちもりなが【安達盛長】

1135‐1200(保延1‐正治2)
鎌倉前期の武将。武蔵国の豪族足立氏の一族か。《尊卑分脈》によれば藤原姓小野田三郎兼盛の子。藤九郎と称す。源頼朝の乳母比企尼の女婿で頼朝の流人時代より彼の側近となる。1180年(治承4)の頼朝挙兵の際には源家譜代家人の招致に力があった。頼朝の信任をうけ,元暦ごろから上野国奉行人として国衙在庁に代わって国内公領の収税事務を管轄し,平氏追討には従軍せずもっぱら東国において幕府の基盤整備を行ったようである。

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世界大百科事典内の安達盛長の言及

【国奉行】より

…(1)中世 鎌倉幕府草創期に源頼朝が勢力下に入れた諸国に置いたもので,国衙在庁を指揮し,国内公領の収税事務を管掌した。1184年(元暦1)に上野国奉行として安達盛長の名がみえ,国役の執行や寺社の管領に当たっている。この時期に上野の軍事統率権をもつ守護は比企能員であったが,のちには盛長の子の景盛が国奉行と守護を兼ねており,いつしか守護職を包摂したことがわかる。…

【三河国】より

…これは貴族としての頼朝に知行国の一つとして三河が与えられたことを示しており,1184年の時点で三河が鎌倉政権の支配下に入っていた証拠である。85年(文治1)の守護地頭設置により,初代守護には幕府創業の重臣安達盛長が任じられ,少なくとも99年(正治1)までは在職した。七御堂建立のような安達氏にまつわる伝承が東三河に多いのは,守護所が国府の近辺に所在したからかもしれない。…

※「安達盛長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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