改訂新版 世界大百科事典 「安達盛長」の意味・わかりやすい解説
安達盛長 (あだちもりなが)
生没年:1135-1200(保延1-正治2)
鎌倉前期の武将。武蔵国の豪族足立氏の一族か。《尊卑分脈》によれば藤原姓小野田三郎兼盛の子。藤九郎と称す。源頼朝の乳母比企尼の女婿で頼朝の流人時代より彼の側近となる。1180年(治承4)の頼朝挙兵の際には源家譜代家人の招致に力があった。頼朝の信任をうけ,元暦ごろから上野国奉行人として国衙在庁に代わって国内公領の収税事務を管轄し,平氏追討には従軍せずもっぱら東国において幕府の基盤整備を行ったようである。89年(文治5)の奥州征討や頼朝の2度の上洛には頼朝に供奉した。正治ごろ三河の守護となる。99年(正治1)頼朝の死により出家。法名蓮西。その後も幕府の宿老として新主頼家の訴論親裁停止後,重臣の合議制が成立したときにはその一人となった。梶原景時の失脚事件では弾劾派であった。無官のままであったが,幕府草創の功臣として重んじられ安達氏興隆の基をなした。
執筆者:青山 幹哉
盛長の夢見
《曾我物語》巻二〈盛長が夢見の事〉〈景信が夢合はせ事〉〈酒の事〉には,頼朝の未来を予告する盛長の夢見と,その夢解きをした平権守景信の話がのっている。夢見の要点は〈頼朝が矢倉嶽(足柄峠の北にあたる)に腰をかけて酒を3度飲む。箱根参詣の折には,左の足で外の浜を踏み,右の足で鬼界島を踏む。また左右のたもとに月日を宿し,小松3本を頭にいただいて南面して歩む〉というもので,景信はこれを頼朝が過去の憂さを忘れて主上上皇の後ろだてや,八幡三所の擁護によって日本全国を従え,天子の位にまで進む吉夢と占う。夢告や夢見を信じ,その啓示のもとにしばしば行動した古代・中世の人々の常識からすると,盛長の夢見は頼朝を反平家の謀反に踏みきらせた有力な原因にあげられる。なお幸若舞曲にも《夢あわせ》があり,〈ここに物のめでたきは〉に始まり〈末繁昌と聞えけり〉で終わる,頼朝に対する祝言的要素が一段と濃い語り物となっている。
執筆者:岩崎 武夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報