中国,宋代の北方窯。1941年,小山冨士夫によって河北省曲陽県の澗磁村と燕山村で窯址が発見された。その後中国の考古学者,陶磁学者によって窯址の発掘調査が行われ,五代より宋,金代にわたり白磁を中心として磁器を焼造していることが明らかになった。定窯では白磁を中心に焼造しているが,黒釉をかけた黒定といわれるものや,柿釉をかけた柿定(紅定)や,磁州窯風の搔落しのものや,焼締陶などがある。このほかに数は少ないが緑釉をかけた緑定などもある。器種は皿,鉢を主に生産し,このほか水注,瓶,壺,陶枕,人形などがある。焼造方法は覆焼といわれる鉢を伏せて十数枚重ねて焼く方法によって行っているため,口縁に釉はかからず,焼成後に金や銀の覆輪を口縁に施していることが多い。
河北省定県静志寺の北宋塔基(977)から100点余りの定窯白磁の浄瓶,碗,盆,香炉,洗,盤,法螺貝形香炉などが発見され,北宋初期に定窯が盛んに磁器焼造を行っていたことが明らかになった。施文方法は浮彫,刻花が多く,北宋期のものは浮彫によって蓮弁文を器面に装飾している。北宋後期から金代には紙のごとく薄い器にひきあげ,唐草文,牡丹文,花鳥文,水禽文を刻花により器面いっぱいに施している。さらに印花文という,型押し技法もこのころ生みだされ,精緻な文様を完成した。定窯ではこのほか,金彩のものがあり,漆で器面に施文した後に金箔をはり込んで唐草文や牡丹文を描いている。この金花定碗は朝鮮の高麗古墳から発掘されたものが多く,ソウルの韓国中央博物館や日本のMOA美術館,大和文華館などに数十点が伝わっている。定窯は元代にも焼造を行っていたようであるが,明代には衰退していく。元・明代には山西省霍県(かくけん)窯で仿定窯の白磁が生産されている。
→白磁
執筆者:弓場 紀知
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中国宋(そう)代(10~13世紀)に隆盛した白磁の名窯。窯址(ようし)は河北省曲陽県澗磁(かんじ)村と燕山(えんざん)村にあり、開窯は晩唐代の9世紀であるが、文献に名高い邢州(けいしゅう)窯が近くの臨城県に発見されていて定窯の初期の作風と共通するところから、邢州窯の支窯として発祥した可能性もある。晩唐から五代(10世紀)にかけては、純白色の粘土にやや青みのある透明釉(ゆう)を施した、やや肉取りの厚い重厚な趣(おもむき)の名作を焼いて頭角を現し、華北第一の白磁の名窯の地位を確立した。その後北宋(ほくそう)王朝(960建国)のもとで11世紀初頭からは作風を北宋様式へと変え、クリーム色の典雅な釉色を完成させている。器形は薄手で、細密なスタンプ文様、フリーハンドで篦(へら)を駆使した流れるような文様を創案して、精緻(せいち)な浮彫り、刻花、印花文など北宋白磁の洗練の極致を築いた。ほかに黒釉磁(黒定)や白化粧陶、掻落(かきお)とし技法を用いたり金銀彩を焼き付けた加飾陶磁、わずかながら緑釉磁(緑定)も焼き、皿、鉢、水注、瓶、壺(つぼ)、人形などをつくった。女真軍の華北進攻(1125)後の金王朝下にも製陶が続けられたことが近年判明しており、作風は粗悪化しつつもかなり量産されたようだが、元代以後、14世紀には極度に衰退していった。
[矢部良明]
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…唐代後期,河北省臨城県の邢窯で硬質の白磁が焼造され,華南の越州窯青磁とならんで高い評価を受けたことが《茶経》などに記されている。五代・北宋時代は邢窯にかわって河北省曲陽県の定窯が白磁焼造の中心となり,薄胎で象牙のように白い器の白磁がつくられ,金・元代の名窯として活動をつづけた。明代には定窯は衰退し,山西省の霍県(かくけん)窯などでわずかに仿定器の白磁がつくられたにすぎない。…
※「定窯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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