富士山の側火山の一つ。1707年(宝永4)富士山の南東斜面の標高2100~3100m付近に噴火が起こり,三つのすりばち状の火口が生じた。これが宝永火口で,このうち最も上部の火口(第1火口)は縦1.5km,横1kmに達する大きなものであった。宝永山(2693m)はこの第1火口の南東壁の高まりで,富士山の中腹から100mほどの比高をもって突出し,側面からみるとなだらかな火山斜面に生じたこぶのようにみえる。宝永山はかつては宝永噴火の噴出物でできているとみられていたが,最近の研究で,新富士火山の下に隠されていた古富士火山の一部が,宝永噴火で押し上げられ,高くなったものだと考えられるようになった。山体はおもに宝永凝灰岩層と呼ばれる凝灰岩と凝灰角レキ岩の互層からなり,その上を宝永噴火の噴出物である黒色の宝永スコリアが薄く覆っている。
執筆者:小泉 武栄
1707年(宝永4)11月23日正午,富士山六合目で噴火が起こり12月9日に至るまでこれが続いた。噴煙は西風に乗って東方に流れ駿河,相模,武蔵一帯に降灰による未曾有の被害をもたらした。宝永山については翌08年6月,須走浅間社神主より出された幕府への上申書に〈宝永山南之方,于今少し焼申候〉と見えているので,噴火後まもなく命名されている。
被害は特に駿河国駿東郡,相模国足柄郡に集中し,降灰の深さは3~5尺と当時の文書に見えているが,1961年に御殿場市中畑(なかばた)地区で発掘された住居址の場合,火山灰は1.8~2mの深さに及び,その下に直径1~1.5cmの軽石が15~20cmにわたって堆積していた。また降灰は田畑に直接被害を与えたのみならず,酒匂(さかわ)川に流入して川底を押し上げ,大雨とともに足柄(小田原)平野に洪水による二次災害をもたらしていった。この降灰被害に対し小田原藩104ヵ村4000人の農民は,幕府に救済を求めるべく訴願出府を決行した。幕府は小田原藩の自力復旧を困難と認め,藩領のうち駿東・足柄両郡で190ヵ村,石高5万6000石余を上知して幕領となし(美濃・播磨両国に同高の替地を給付),関東郡代伊奈忠順の手で復旧普請にあたらせた。そしてこの資金にあてるべく幕府は全国に対して石高100石につき金2両の国役金を賦課し,計48万両余を得た。しかし実際に普請に投入されたのは6万両余にすぎず,残りは赤字に苦しむ幕府財政の補てんにあてられたものと思われる。当地の降灰除去作業は予想を超える困難なものであり,伊奈忠順の指揮の下,全郡を挙げて田畑の復旧に取り組んだが容易に進捗せず,噴火から10年経た1716年(享保1)に復興のめどのついた駿東郡32ヵ村,石高6390石余のみが小田原藩領へ戻り地となった。足柄郡諸村は依然として幕領にとどまり,47年(延享4),83年(天明3)の2次にわたってようやく復領している。
執筆者:笠谷 和比古
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
静岡県北東部、富士山山頂の南東部に位置する側火山。標高2693メートル。静岡県御殿場市(ごてんばし)に属する。1707年(宝永4)の噴火活動によって生じた火口は北北西から南南東方向に三つ並び、第1火口は長径1300メートル、短径1000メートルの楕円(だえん)形で新内院とよばれる。第2、第3火口はこれよりずっと小さい。突出部は肩状の形態をもって赤岩とよばれ、赤褐色の火砕流堆積(たいせき)物は古富士火山の一部とされている。宝永山の活動は、溶岩は流出せず火山灰の噴出が多く、江戸市中まで降灰があった。
[北川光雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 富士山の中腹以下の地形をつくる要因としてもう一つ重要なのは,60個余の側火山の存在で,おもに北西側と南東側に集中的に分布している。これらは小型の噴石丘が多いが,宝永山(2693m)のように規模の大きいものもある。貞観年間の噴火をはじめ,有史以来のおもな活動はすべて側火山でおこっており,山麓の地形の形成にも大きくかかわった。…
※「宝永山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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