宝生新(読み)ホウショウシン

デジタル大辞泉 「宝生新」の意味・読み・例文・類語

ほうしょう‐しん〔ホウシヤウ‐〕【宝生新】

[1870~1944]能楽師ワキ方下掛しもがかり宝生流10世宗家。名は「あらた」とも。東京の生まれ。明治・大正・昭和にわたって活躍名人とうたわれた。

ほうしょう‐あらた〔ホウシヤウ‐〕【宝生新】

ほうしょうしん(宝生新)

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精選版 日本国語大辞典 「宝生新」の意味・読み・例文・類語

ほうしょう‐しん【宝生新】

  1. 能楽師。ワキ下掛宝生流一〇世宗家。本名朝太郎忠英。九世宝生金五郎の長子。「あらた」とも。明治末から昭和の前期にわたって活躍した。明治三~昭和一九年(一八七〇‐一九四四

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「宝生新」の解説

宝生 新
ホウショウ シン


職業
能楽師(下掛宝生流ワキ方)

肩書
下掛宝生流宗家(10代目) 帝国芸術院会員〔昭和12年〕

本名
宝生 朝太郎(ホウショウ トモタロウ)

別名
諱=忠英

生年月日
明治3年 10月23日

出生地
東京・日本橋

学歴
共立学校,東洋英和学校

経歴
父からスパルタ教育を受け、明治8年6歳の時「猩々」で初舞台に立ったが、16歳でこの道を離れ、医学や語学を志しての学業と色々な極道の末、30歳近くなってから能に復帰。江戸前の美貎とすぐれた美声であらゆるシテをもり立てて能の水準を高め、38年父の死により10代目宗家を継いだ。稀代のワキの名人で、昭和12年に帝国芸術院が創設されると、先代梅若万三郎とともに能楽界から初の会員に選ばれた。夏目漱石も一時弟子をしていた。著書に「宝生翁新自伝」。レコードもある。

没年月日
昭和19年 6月10日 (1944年)

家族
父=宝生 金五郎(=英周 9代目宗家),長男=宝生 哲(=彰彦 11代目宗家),孫=宝生 閑(ワキ方)

親族
女婿=宝生 弥一(ワキ方),伯父=宝生 新朔(8代目宗家)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝生新」の意味・わかりやすい解説

宝生新
ほうしょうしん
(1870―1944)

能楽師。ワキ方下掛(しもがか)り宝生流10世宗家。「あらた」ともいう。本名朝太郎。東京・今川橋に生まれる。希代のワキの名人。1937年(昭和12)に帝国芸術院が創設されると、初代梅若万三郎(うめわかまんざぶろう)とともにその会員に選ばれた。父金五郎(きんごろう)(1841―1905)のスパルタ教育を受けたが、16歳でこの道を離れ、30歳近くなってから能に復帰したという経歴の持ち主だけに、その天分と基礎教育の確かさがわかる。江戸前の美貌(びぼう)と優れた美声に恵まれ、あらゆるシテをもり立てて、能の水準を高めた。高弟松本謙三(けんぞう)、宝生弥一(やいち)(娘婿)があり、森茂好(しげよし)、宝生哲(てつ)(前名彰彦(あきひこ)。1922―2002)は実子。宝生閑(かん)(1934―2016)、森常好(つねよし)(1955― )は孫にあたる。そのずぼらさに、弟子の夏目漱石(そうせき)が断りの手紙を出しても、またのこのこと稽古(けいこ)に出かけ、漱石も辟易(へきえき)したといった逸話が多い。野上豊一郎(とよいちろう)、安倍能成(あべよししげ)、小宮豊隆(とよたか)ほか、漱石門下も宝生新に学び、能への貢献が大きかった。

[増田正造]

『『宝生新自伝』(1959・能楽書林)』

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20世紀日本人名事典 「宝生新」の解説

宝生 新
ホウショウ アラタ

明治〜昭和期の能楽師(下掛宝生流ワキ方) 下掛宝生流宗家(10代目)。



生年
明治3年10月23日(1870年)

没年
昭和19(1944)年6月10日

出生地
東京・日本橋

本名
宝生 朝太郎(ホウショウ トモタロウ)

別名
諱=忠英

学歴〔年〕
共立学校,東洋英和学校

経歴
父からスパルタ教育を受け、明治8年6歳の時「猩々」で初舞台に立ったが、16歳でこの道を離れ、医学や語学を志しての学業と色々な極道の末、30歳近くなってから能に復帰。江戸前の美貎とすぐれた美声であらゆるシテをもり立てて能の水準を高め、38年父の死により10代目宗家を継いだ。稀代のワキの名人で、昭和12年に帝国芸術院が創設されると、先代梅若万三郎とともに能楽界から初の会員に選ばれた。夏目漱石も一時弟子をしていた。著書に「宝生翁新自伝」。レコードもある。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝生新」の意味・わかりやすい解説

宝生新 (ほうしょうしん)
生没年:1870-1944(明治3-昭和19)

能楽師,ワキ方宝生流10世宗家。本名朝太郎忠英。9世宝生金五郎の長男で,主として8世新朔(父の実兄で養父)に師事した。端正な風貌と天性の名調の持ち主で,闊達(かつたつ)自在な芸を見せ,明治・大正・昭和3代にわたってワキの名人との定評を受けた。松本謙三,宝生弥一,森茂好らを養成し,ワキ方の正統な技芸をのちに伝えた功も著しい。1937年帝国芸術院創設と同時に会員となる。著書に《宝生新自伝》がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「宝生新」の意味・わかりやすい解説

宝生新【ほうしょうしん】

能楽師。名は〈あらた〉とも読む。下掛り宝生流10世宗家。ワキ方の名人。声・風貌・芸格ともにすぐれ,初世梅若万三郎とともに第1回の芸術院会員に選ばれた。松本謙三〔1899-1980〕,宝生弥一〔1908-1985〕,森茂好〔1916-1991〕はその高弟でいずれも人間国宝となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝生新」の意味・わかりやすい解説

宝生新
ほうしょうあらた

[生]明治3(1870).10.23. 東京
[没]1944.6.10. 東京
能楽ワキ方。下掛り宝生流。本名朝太郎忠英。下掛り宝生流9世家元金五郎英周の長男として生れ,7歳のとき,『猩々』のワキで初舞台。伯父新朔や父につき修業。 16歳で一時廃業するが,27歳で復帰して新と名のり,1905年 10世家元となる。 37年帝国芸術院会員となる。芸風は新朔に近く,繊細な謡を得意とした。『宝生新自伝』があり,門下から松本謙三,宝生弥一,森茂好が輩出した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生新」の解説

宝生新 ほうしょう-しん

1870-1944 明治-昭和時代前期の能楽師ワキ方。
明治3年10月23日生まれ。宝生金五郎の長男。下掛(しもがかり)宝生流宗家10代。9代である父や養父の8代宝生新朔(しんさく)に師事する。美声と,ととのった容姿で「隅田川」「道成寺」などのワキをつとめ,名人といわれた。昭和12年の帝国芸術院創設に際し,その会員となる。昭和19年6月10日死去。75歳。東京出身。名は朝太郎忠英。著作に『宝生新自伝』。

宝生新 ほうしょう-あらた

ほうしょう-しん

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367日誕生日大事典 「宝生新」の解説

宝生 新 (ほうしょう しん)

生年月日:1870年10月23日
明治時代-昭和時代の能楽師
1944年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宝生新の言及

【宝生流】より

…ワキ方諸流のなかでは最も新しい流派であるが,代々名人が輩出し,近代では,明治の三名人(初世梅若実,桜間伴馬(ばんま),16世宝生九郎)を超える名手といわれた8世喜勢太郎英才(新朔(しんさく)。1836‐98),9世金五郎英周(1841‐1905)の兄弟が名高く,金五郎の子10世朝太郎忠英(宝生新(しん)。1870‐1944)は,初世梅若万三郎とともに1937年第1回の帝国芸術院会員となった名人。…

※「宝生新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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