江戸時代の農学者。安芸(あき)国(広島県)の人。広島藩士宮崎儀右衛門(ぎえもん)の二男として生まれ、25歳で、筑前(ちくぜん)国(福岡県)に至り福岡藩黒田忠之(くろだただゆき)(1602―1654)に仕え、禄(ろく)200石を給せられた。30歳ごろ勤めを辞し、筑前国志麻郡女原(みょうばる)村(福岡県西区周船寺町女原)に定住し、以後40年間、自ら農業を営み、開墾や植林に努め、農業指導にあたった。その間、農業の先進地といわれる地方をしばしば旅行し、各地の老農に学び、農業の実際を見聞した。彼の主著『農業全書』は1697年(元禄10)7月に刊行されているが、彼は同年同月の23日に没しており、刊本を手にしたかどうかさだかでない。『農業全書』は刊行後、多大の影響を世に与えたが、その完成までの貝原益軒(かいばらえきけん)および益軒の兄の楽軒(らくけん)(1625―1702)、また益軒の子の好古(こうこ)(1664―1700)との関係を無視することはできない。安貞は益軒より7歳年長であったが、よくその指導を受け、とくに中国明代の農書『農政全書』を手本とするようになったのは益軒の指導による。楽軒は『農業全書』の校閲と一部執筆などを行い、好古は出版に際して協力した。
[福島要一 2016年7月19日]
江戸前期の農学者。通称は文太夫。広島藩士の次男に生まれ,25歳のとき筑前福岡藩に仕官した。30歳を過ぎて官を辞し,志摩郡女原(みようばる)村(現,福岡市西区女原)に住み,みずから開墾に従事し農耕に励んだ。その間,先進地の農業を視察し,老農の体験を学んだ。また藩内では貝原益軒,その兄楽軒と交わり,とくに益軒からは中国の農書や本草書について啓発を受けた。益軒もしばしば彼の農園を訪ねている。こうして40年の努力の結果,本邦農書の原典と評価される《農業全書》の執筆と出版をみることができた。彼はこの農書において,力耕する小農民に農業の知識を授け,万年飢餓の状態から解放されることを目的とした。女原地区ではその徳をたたえ,毎年〈安貞さん祭〉を営んでいる。
執筆者:山田 龍雄
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1623~97.7.23
江戸前期の農学者。通称は文太夫。安芸国広島藩士宮崎儀右衛門の次男。25歳のとき筑前国福岡藩に仕え200石を給されるが,30歳を過ぎて致仕。同国女原(みょうばる)村(現,福岡市西区)に隠居し農事を業とする。山陽道をはじめ畿内・伊勢・紀伊など諸国を回り老農の説を聞書きする一方,貝原益軒らとも交わり中国の農書や本草書を研究。みずからも栽培技術の改良を試みた。中国の「農政全書」を参考に,40年の経験と研究をもとに1696年(元禄9)「農業全書」10巻を著し,翌年出版。日本初の体系的農書として最高との評価をうける。大蔵永常・佐藤信淵(のぶひろ)とともに江戸時代の三大農学者と称された。
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…1697年(元禄10)に出版された,刊本としては日本最古の体系的農書。元福岡藩士宮崎安貞が福岡城外女原(みようばる)村に帰農40年にして著述したもの。全11巻。…
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