埼玉県北西部,大里郡の町。人口3万5774(2010)。秩父山地の東麓に位置し,町域の大部分は台地である。中心集落の寄居は荒川の河岸段丘上に発達した谷口集落で,中世には鉢形城が築かれた。江戸時代に入って城は廃されたが,鎌倉街道,秩父往還の市場町として,絹や穀物,木材の取引で栄えた。古くから養蚕と酪農が盛んであったが,近年は植木栽培や施設園芸も行われている。JR八高線,秩父鉄道線,東武東上線をはじめ,国道140号,254号線が交わる県北西部の交通の要地で,商業活動が盛んである。景勝地の玉淀や円良田(つぶらだ)湖,鉢形城跡(史),正竜寺の北条氏邦夫妻墓,古代の末野(すえの)窯跡などがあり,行楽地としても知られる。西部の山間にある風布(ふつぷ)や小林のミカン栽培は戦国時代に小田原から伝えられたものといわれる。
執筆者:千葉 立也
寄居は,武蔵七党の一つ猪俣党の本拠地で,その流れをくむ藤田,山崎,桜沢,飯塚,用土,男衾(おぶすま)などの中世武士が周辺に割拠していた。1476年(文明8)関東管領上杉顕定の家臣長尾景春が荒川右岸に鉢形城を築き,主家に背いて反乱を起こしたが,まもなく太田資長(道灌)に攻められて退去した。その後,上杉氏の重臣藤田康邦が居城したが,やがて小田原北条氏の支配に服し,北条氏康の三男氏邦が城主となり,北武蔵における北条氏の重要な軍事的拠点となった。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻略に際し,前田利家,上杉景勝らに攻められて同年6月落城した。徳川家康は関東入国にあたり,腹心の成瀬・日下部両氏を代官として派遣したが,のちに幕府領となった。鎌倉街道や秩父往還に沿った交通・運輸の要衝で,物資の集散地としてにぎわった。
執筆者:田代 脩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
埼玉県北西部、大里郡(おおさとぐん)にある町。1889年(明治22)町制施行。1943年(昭和18)桜沢村を編入。1955年(昭和30)用土(ようど)、折原、鉢形(はちがた)、男衾(おぶすま)の4村と合併。JR八高(はちこう)線、秩父(ちちぶ)鉄道、東武東上線、国道140号と254号、皆野寄居バイパスが通じ、寄居風布(ふうっぷ)、寄居折原の各インターチェンジがあり、近くに関越自動車道花園インターチェンジがある。秩父山地から流れる荒川が山間部を経て台地に出る谷口に位置する。中世花園城(はなぞのじょう)の城下町で、江戸時代には谷口集落として、4、9の日には市(いち)が立った。関東西部養蚕地帯の中心をなしていたが、現在は畜産、植木、野菜生産が盛んである。長尾景春(かげはる)ゆかりの鉢形城跡(国指定史跡)、戦国時代の武将藤田康邦(やすくに)、北条氏邦(うじくに)の墓のある正竜寺、末野(すえの)窯跡などの史跡、玉淀ダム(たまよどだむ)や円良田湖(つぶらだこ)(一部は美里(みさと)町)などの観光地があり、県立長瀞(ながとろ)玉淀自然公園の一中心である。面積64.25平方キロメートル、人口3万2374(2020)。
[中山正民]
『『寄居町史』全7巻(1981~1987・寄居町)』
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…埼玉県大里郡寄居町の地名。中世・近世には男衾(おぶすま)郡のうち。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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