富士松薩摩掾 (ふじまつさつまのじょう)
新内節富士松派の演奏家。(1)初世(1686-1757・貞享3-宝暦7) 本名野中彦次郎。新内節始祖の一人。初め宮古路豊後掾の弟子で宮古路加賀太夫を称した。1745年(延享2)冬に富士松薩摩と改めて独立,翌年掾号を受領し,富士松家を創始した。江戸の劇場に出演したが,豊後掾譲りの語り口で,内容的にはあまり特色はなかったようである。三味線方は竹沢平八。初世の子が薩摩と名のったが芸歴などは未詳で,以後この名跡は中絶していた。(2)2世(1862-1939・文久2-昭和14) 本名小林かつ。5世富士松加賀太夫に入門,加賀富,加賀千代,魯遊,松老をへて,1930年2世を襲名。(3)3世(1870-1942・明治3-昭和17) 本名井上金太郎。7世富士松加賀太夫に学ぶ。2世薩摩掾の没後,東掾(あずまのじよう)から3世を襲名した。2世,3世とも,初世とは血縁,芸系の関係はない。
執筆者:竹内 道敬
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富士松薩摩掾(1世)
ふじまつさつまのじょう[いっせい]
[生]貞享3 (1686)
[没]宝暦7 (1757).6.6. 江戸
新内節の遠祖。本名野中彦次郎。宮古路豊後掾の門に入り,宮古路加賀太夫を名のる。師とともに江戸に下り,豊後節の哀婉で煽情的な芸風が一大旋風を巻き起こした。ところが,それが江戸市中の心中事件多発の原因とされ,幕府より弾圧を受け,元文4(1739)年には芝居出勤や稽古などほとんど全面的に禁止された。同 1(1736)年に弾圧が始まったためそれより前に師は掾号を返上して京都に戻ったが,江戸に残留した門弟のなかで加賀太夫はいち早く延享2(1745)年に富士松薩摩と改名して富士松節を興した。翌同 3(1746)年には掾号を得る。師の豊後節の芸風,芸域などと特に変わるところはなかったが,劇場にも出勤した。晩年は質屋を営み,盗賊に襲われても困窮することはなかったといわれている。門下に 1世鶴賀若狭掾が出て,また若狭掾の門人の 2世鶴賀新内の語り口が人気を得てもてはやされたことにより,富士松節も鶴賀節も一括して新内節と呼ばれるようになった。
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富士松 薩摩掾(2代目)
フジマツ サツマノジョウ
- 職業
- 新内節太夫
- 本名
- 小林 カツ
- 生年月日
- 文久2年 5月22日
- 出生地
- 江戸・四谷(東京都)
- 経歴
- 5代目富士松加賀太夫に入門、加賀富を経て明治8年加賀千代の名を貰う。その後、17年魯遊、大正10年松老、15年再び魯遊を経て、昭和5年2代目薩摩掾を襲名。初代とは何の関係もない。古風な浄瑠璃で「梅の由兵衛」などを得意とした。
- 没年月日
- 昭和14年 10月25日 (1939年)
富士松 薩摩掾(3代目)
フジマツ サツマノジョウ
- 職業
- 新内節太夫
- 本名
- 井上 金太郎
- 別名
- 前名=富士松 東掾
- 生年月日
- 明治3年 6月9日
- 出生地
- 神奈川県 横浜
- 経歴
- 2代目の没後3代目薩摩掾を襲名。
- 没年月日
- 昭和17年 (1942年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
富士松 薩摩掾(2代目)
フジマツ サツマノジョウ
明治〜昭和期の新内節太夫
- 生年
- 文久2年5月22日(1862年)
- 没年
- 昭和14(1939)年10月25日
- 出生地
- 東京・四谷
- 本名
- 小林 カツ
- 経歴
- 5代目富士松加賀太夫に入門、加賀富を経て明治8年加賀千代の名を貰う。その後、17年魯遊、大正10年松老、15年再び魯遊を経て、昭和5年2代目薩摩掾を襲名。初代とは何の関係もない。古風な浄瑠璃で「梅の由兵衛」などを得意とした。
富士松 薩摩掾(3代目)
フジマツ サツマノジョウ
明治〜昭和期の新内節太夫
- 生年
- 明治3年6月9日(1870年)
- 没年
- 昭和17(1942)年
- 出生地
- 神奈川県横浜
- 本名
- 井上 金太郎
- 別名
- 前名=富士松 東掾
- 経歴
- 7代目富士松加賀太夫に学ぶ。2代目の没後3代目薩摩掾を襲名。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
富士松薩摩掾(初代)
没年:宝暦7.6.6(1757.7.21)
生年:貞享3(1686)
江戸中期の豊後節の太夫。本名野中彦次郎。宮古路豊後掾 の門弟で,豊後節禁止の時代に,宮古路文字太夫(のち初代常磐津文字太夫),綱太夫,数馬太夫らと共に江戸で豊後節の再興に尽くした。はじめ宮古路加賀太夫と称して,敦賀太夫(鶴賀若狭掾)らをワキに従え劇場に出演していたが,延享2(1745)年冬に富士松薩摩と改名,翌年暮れに掾号を受領して薩摩掾となった。しかし,同門の文字太夫の常磐津節が着々と江戸の劇壇にその地位を確立していく一方で,薩摩掾一門はそれほど派手な活動もなく劇場から去った。富士松姓も彼の死後,魯中によって再興されるまで休眠状態となった。晩年は浅草で質屋を営んだという。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
富士松薩摩掾(2代) ふじまつ-さつまのじょう
1862-1939 明治-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文久2年5月22日生まれ。新内節。5代富士松加賀太夫に入門。加賀千代,魯遊(ろゆう)などをへて,大正12年江戸派富士松をおこし松老と改名したが,のちふたたび魯遊を名のり,昭和5年2代薩摩掾を襲名。なお2代,3代とも初代とは血縁,芸系ともに無関係。昭和14年10月25日死去。78歳。江戸出身。本名は小林かつ。
富士松薩摩掾(初代) ふじまつ-さつまのじょう
1686-1757 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
貞享(じょうきょう)3年生まれ。新内節。宮古路豊後掾(ぶんごのじょう)の門弟で,豊後節禁令後その再興につとめた。延享2年独立して富士松薩摩と改名,翌年掾号を受領。晩年は江戸浅草で質屋をいとなむ。宝暦7年6月6日死去。72歳。本名は野中彦次郎。初名は宮古路加賀太夫。
富士松薩摩掾(3代) ふじまつ-さつまのじょう
1870-1942 明治-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治3年6月9日生まれ。新内節。7代富士松加賀太夫に師事。2代薩摩掾の没後,富士松東掾(あずまのじょう)をあらため3代をついだ。昭和17年死去。73歳。本名は井上金太郎。
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富士松 薩摩掾(3代目) (ふじまつ さつまのじょう)
生年月日:1870年6月9日
明治時代-昭和時代の新内節富士松派演奏家
1942年没
富士松薩摩掾(2代目) (ふじまつさつまのじょう)
生年月日:1862年5月22日
江戸時代の浄瑠璃太夫
1939年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の富士松薩摩掾の言及
【新内節】より
…それ以前の同系統の富士松,鶴賀,豊島らの節も含み,また後年富士松魯中(ろちゆう)の称した富士松浄瑠璃も,現在では新内節に含めている。
[歴史]
享保(1716‐36)の末ごろ,上方から江戸に下った宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじよう)にしたがった宮古路加賀太夫は,1745年(延享2)に師家を去って独立,富士松薩摩(翌年[富士松薩摩掾]を受領)と名のり52年(宝暦2)まで劇場に出演し,57年に没した。この富士松家は3代目で中絶した。…
※「富士松薩摩掾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」