鶴賀若狭掾(読み)ツルガワカサノジョウ

デジタル大辞泉 「鶴賀若狭掾」の意味・読み・例文・類語

つるが‐わかさのじょう【鶴賀若狭掾】

[1717~1786]新内節太夫・作曲者。越前敦賀の人。宮古路加賀太夫(のち富士松薩摩掾さつまのじょう)の門から出て、鶴賀派創始。2世鶴賀新内とともに新内節を大成、「明烏あけがらす」「蘭蝶らんちょう」「尾上伊太八」などの作品をのこした。

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精選版 日本国語大辞典 「鶴賀若狭掾」の意味・読み・例文・類語

つるが‐わかさのじょう【鶴賀若狭掾】

  1. 新内節鶴賀派の祖。本名高井庄兵衛。越前(福井県)敦賀の人。宮古路加賀太夫(のち富士松薩摩掾)に学び、独立して朝日若狭掾、ついで鶴賀若狭掾と改称。同門の鶴賀新内を客分として提携し、御座敷浄瑠璃としての新内節を大成。代表曲「明烏」「蘭蝶」。享保二~天明六年(一七一七‐八六

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改訂新版 世界大百科事典 「鶴賀若狭掾」の意味・わかりやすい解説

鶴賀若狭掾 (つるがわかさのじょう)
生没年:1717-86(享保2-天明6)

新内節の太夫,作曲家。越前敦賀生れ。本名高井庄兵衛。宮古路加賀太夫(のち富士松薩摩掾)の門人で初名加賀八。1744年(延享1)春,鶴賀太夫として江戸中村座に出演,51年(宝暦1)朝日若狭掾と改め,58年鶴賀若狭掾源義正となる。しかしまもなく劇場出演をやめてお座敷浄瑠璃に専念,《明烏(あけがらす)》《蘭蝶》《伊太八》などを発表,新内節〈端もの〉の基礎を固めた。一方,浅草新堀端で古道具屋を営み,品川で男芸者になり,晩年芝高輪に住み,天明(1781-89)初年からは当時流行の狂歌にこって大木戸黒牛(おおきどのくろうし)と改めた。《狂歌二葉草》《狂歌知足振》などに作品がある。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「鶴賀若狭掾」の解説

鶴賀 若狭掾
ツルガ ワカサノジョウ


職業
新内節太夫

肩書
鶴賀流家元(8代目)

本名
鈴木 寿

別名
前名=鶴賀 若狭太夫(3代目)(ツルガ ワカサダユウ)

生年月日
明治38年 3月16日

出生地
東京市 京橋区(東京都 中央区)

経歴
父は7代目鶴賀新内、母は5代目鶴賀鶴吉。2代目鶴賀斎に師事し、大正6年鶴賀流8代家元を継いで若狭太夫となり、同年若狭掾と改名した。「稲川」の喧嘩場、「白藤源太」の修羅場を得意とした。

没年月日
昭和44年 3月5日 (1969年)

家族
父=鶴賀 新内(7代目),母=鶴賀 鶴吉(5代目)

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朝日日本歴史人物事典 「鶴賀若狭掾」の解説

鶴賀若狭掾(初代)

没年:天明6.3.22(1786.4.20)
生年:享保2(1717)
江戸中期の豊後節の太夫。宮古路豊後掾 の門弟宮古路加賀太夫(初代)の高弟で,初名加賀八,のちに敦賀太夫と称する。延享1(1744)年から師と共に,江戸三座に出演。3年に加賀太夫が富士松薩摩掾と改名したときに,師と共に富士松姓に変わった。宝暦1(1751)年に独立。朝日若狭掾と名を改め,江戸森田座に出演した。8年秋には鶴賀と改姓,ここに新内節鶴賀本家の歴史が始まるのだが,若狭掾はこのとき森田座に出演したのを最後に,劇場上演記録から姿を消してしまう。座敷浄瑠璃としての新内節(当時まだこの呼称はなかったが)の新作を生み出すことに励む一方,狂歌師大木戸黒牛として晩年を送った。現在の新内節の代表曲は,この若狭掾の手によるものが多い。「明烏」「蘭蝶」「お駒」なども若狭掾の作品だといわれている。<参考文献>竹内道敬「鶴賀若狭掾研究」(『国立音楽大学研究紀要』第26集)

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鶴賀若狭掾」の意味・わかりやすい解説

鶴賀若狭掾(1世)
つるがわかさのじょう[いっせい]

[生]享保2(1717).敦賀
[没]天明6(1786).3.22. 江戸
新内節の太夫。鶴賀派の祖。本名高井庄兵衛。宮古路加賀太夫の高弟。初名宮古路加賀八,のち敦賀太夫。師が富士松薩摩と改名した際にともに富士松姓になり,宝暦1 (1751) 年頃独立して朝日若狭掾と名のり,同8年までに鶴賀若狭掾と改称。その語りは鶴賀節と呼ばれた。同8年以後は劇場を離れ,お座敷浄瑠璃専門となり,のちの新内節の芸風を確立した。代表作『明烏』『蘭蝶』『伊太八』。門下の2世鶴賀新内から新内節の呼称が起きた。

鶴賀若狭掾(2世)
つるがわかさのじょう[にせい]

[生]1905.3.16.
[没]1969.3.5.
新内節の太夫。7世鶴賀新内の長男。本名鈴木寿。鶴賀派の家元としては8世,名跡は2人目。 1917年3世若狭太夫を名のり,その後2世若狭掾となった。

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20世紀日本人名事典 「鶴賀若狭掾」の解説

鶴賀 若狭掾(8代目)
ツルガ ワカサノジョウ

大正・昭和期の新内節太夫



生年
明治38(1905)年3月16日

没年
昭和44(1969)年3月5日

出生地
東京・京橋

本名
鈴木 寿

経歴
2代目鶴賀斎に師事し、大正6年家元を継いで若狭太夫となり、同年若狭掾と改名した。「稲川」の喧嘩場、「白藤源太」の修羅場を得意とした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鶴賀若狭掾」の解説

鶴賀若狭掾(初代) つるが-わかさのじょう

1717-1786 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)2年生まれ。新内節の創始者。初代富士松薩摩掾(さつまのじょう)の門人。宝暦元年独立して朝日若狭掾と名のり,8年鶴賀と改姓。晩年は狂歌をこのみ大木戸黒牛と号した。天明6年3月22日死去。70歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。姓は高井。通称は庄兵衛。初名は宮古路加賀八太夫。前名は宮古路(のち富士松)敦賀太夫。作品に「明烏(あけがらす)」「蘭蝶(らんちょう)」など。

鶴賀若狭掾(3代) つるが-わかさのじょう

1938- 昭和-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
昭和13年7月11日生まれ。父の鶴賀伊勢太夫に新内節をまなび,鶴賀伊勢路太夫,鶴賀伊勢太夫をへて,平成12年若狭掾を襲名。13年新内節浄瑠璃で人間国宝。15年新内協会理事長。東京出身。成城高卒。本名は高橋行道。作曲作品に「婦系図・注文帳」(泉鏡花原作),「明烏三羽起請文」(榎本滋民作・新内芝居)など。

鶴賀若狭掾(2代) つるが-わかさのじょう

1905-1969 大正-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治38年3月16日生まれ。7代鶴賀新内の子。母は5代鶴賀鶴吉。大正6年鶴賀8代家元を相続する。昭和44年3月5日死去。63歳。東京出身。本名は鈴木寿。前名は鶴賀若狭太夫(3代)。

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367日誕生日大事典 「鶴賀若狭掾」の解説

鶴賀 若狭掾 (つるが わかさのじょう)

生年月日:1938年7月11日
昭和時代;平成時代の新内節太夫

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世界大百科事典(旧版)内の鶴賀若狭掾の言及

【蘭蝶】より

…通称を《此糸(このいと)蘭蝶》とも。初世鶴賀若狭掾作曲。安永(1772‐81)末ごろ成るか。…

【伊太八】より

…本名題《帰咲名残命毛(かえりざきなごりのいのちげ)》。初世鶴賀若狭掾(つるがわかさのじよう)作詞・作曲。《明烏(あけがらす)》《蘭蝶》と並ぶ新内節の代表曲。…

【新内節】より

…一方,初代富士松薩摩が宮古路加賀太夫といったころからのワキ佐賀太夫は,師の没後豊島(とよしま)国太夫と名のったがこれも一代で終わった。同じく加賀太夫時代のワキ加賀八は,敦賀太夫から朝日若狭掾となり,さらに1758年鶴賀若狭掾と改名した。このころまでの語り口は,豊後節そのままであったらしいが,一方,宮古路豊後掾の江戸での後継者常磐津文字太夫の流派が全盛となり,江戸三座の芝居を独占するにいたった。…

※「鶴賀若狭掾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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