江戸期の城。福岡県北九州市小倉北区城内にあり、響灘(ひびきなだ)に注ぐ紫(むらさき)川の河口西岸の丘陵を本丸とし、その周囲に松の丸、北の丸、二の丸、三の丸を配している。鎌倉期の文永(ぶんえい)年間(1264~75)に緒方惟重(おがたこれしげ)がこの地に城を築いていたというが、小倉城との直接のつながりはない。城は1602年(慶長7)細川忠興(ただおき)によって築かれた。黒塗り下見板張りの天守閣は最上層が下の階より張り出し、「南蛮造」とか「唐(から)造」といわれるが、これはキリシタン大名であった忠興が、外人宣教師の技術を取り入れたものといわれている。1632年(寛永9)細川氏が熊本城に転封後、小笠原(おがさわら)氏が15万石で入り、明治維新まで相継いだ。現在の復興天守は1959年(昭和34)に再建されたものである。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…1587年(天正15)より毛利勝信が企救・田川2郡を領していたが関ヶ原の戦後改易され,代わって細川忠興が丹後国宮津より入部,豊前一国および豊後国国東(くにさき)・速見2郡をあわせ30万石(内高39万9000石)を領した。細川氏は1602年(慶長7)より小倉城を築き,領内の検地および戸口調査を実施,手永(てなが)制度を創設,また城下町を整備して藩制の基礎を定めた。22年(元和8)作成の〈小倉藩人畜改帳〉は江戸初期の農村の状況を今に伝えるものとして貴重である。…
※「小倉城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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