小川島(読み)おがわしま

日本歴史地名大系 「小川島」の解説

小川島
おがわしま

[現在地名]呼子町大字小川島

呼子港より約六キロ北方の玄界灘の離島。周囲約四キロ、面積〇・九二平方キロ。石英玄武岩で形成されている。島の最高峰たけの山(六〇・五八メートル)は、海上からテーブル状にみえ、荒天時は波濤が島を越すようにみえる。周辺に折瀬おりせ・ヒラセ・ヤカタゼなどの暗礁があり、海の難所とされる。

松浦拾風土記」に「往古は無人島にして島中池あり、竹林の中に大牛住みて人を寄せざる由、其牛死して後池も埋み追々人住み島となり」とあるが、貝塚縄文晩期の石鏃石錘などが発見され、貝塚遺跡からは抜歯の人骨も出土し、古くから人が居住していたことが確かめられる。唐津藩政期は名古屋なごや組に属し、元和年間(一六一五―二四)庄屋の存在は明らかでないが、明和八年(一七七一)に村役として庄屋名があがっている。

玄界灘の孤島小川島が世に知られるようになったのは、一六世紀末以降捕鯨の基地になってからである。小川嶋捕鯨大意書に「小川嶋における捕鯨業タル遠ク文禄年間、唐津藩主寺沢志摩守の創始ニシテ、当時突取捕獲ノ漁法ナリシガ、降テ宝暦十三年ニ網取捕獲ニ変更ス」と記しているが、「松浦拾風土記」に「寺沢公唐津城御受取の頃鯨組思召玉へども漁師なき故、紀州熊野浦へ漁夫雇に遣されし御状呼子浦へ所持の者あり、其後、兵庫頭、加賀守に成りて、其業を成す者諸方より来り、別て大村領松島組の大祖助次郎と云者、指南す」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小川島」の意味・わかりやすい解説

小川島
おがわしま

佐賀県唐津市(からつし)に属する玄界灘(げんかいなだ)の島。東松浦半島北端の呼子(よぶこ)港から北約6キロメートルの海上にあり、面積0.92平方キロメートル、玄武岩の低い台地からなる。最高地点61メートル。島の南側のほぼ中央の入り江には、整備された漁港があり、その背後に集落が分布する。イカ、ブリ、タイなどの一本釣りや、ウニアワビ海草などをとる漁業が主体で、台地にはニンニク、スイカ、いも類などの畑作をみる。島の山見(やまみ)岳などには、クジラを見張る山見小屋があったと伝えるが、江戸時代には、唐津藩の保護のもとに玄界捕鯨の基地となり、本島の納屋(なや)場でクジラを解体した。その納屋場は大正時代には加部島(かべしま)に移されており、この海域の捕鯨も1950年代に入り廃業の運命に置かれた。江戸時代末期につくられた鯨鯢(げいげい)(クジラの胎児)供養塔がある。また、鯨見張所は県の重要有形民俗文化財となっている。加部島の田島神社の分社ともいわれる本島田島神社の境内には、縄文、弥生(やよい)、古墳時代の貝塚がある。呼子港から連絡船が就航する。人口513(2009)。

[川崎 茂]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小川島」の意味・わかりやすい解説

小川島
おがわしま

佐賀県北西部,玄界灘に浮かぶ島。低平な玄武岩の台地で,唐津市に属する。島民は漁業を主とし畑作を兼ねる。江戸時代以来,玄海捕鯨基地として知られたが,第2次世界大戦後クジラの激減と捕鯨の国際的制約のために,1960年捕鯨を廃止した。呼子港との間に定期船がある。玄海国定公園に属する。面積 0.92km2。人口 575 (2000) 。

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デジタル大辞泉プラス 「小川島」の解説

小川島

佐賀県唐津市、呼子港の北方沖約6キロメートルに位置する玄海諸島の島。面積約0.92平方キロメートル。江戸時代から昭和30年代まで、捕鯨の島として栄えた。島南部の高台の公園内に当時の「鯨見張所」が保存されているほか、民謡「鯨骨切唄」が伝わる。

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