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デジタル大辞泉
「小川平吉」の意味・読み・例文・類語
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小川平吉
おがわへいきち
(1869―1942)
明治後期~昭和前期の政治家。明治2年12月1日、現在の長野県諏訪(すわ)郡富士見町に生まれる。帝国大学法科大学卒業後弁護士となる。近衛篤麿(このえあつまろ)のもとに東亜同文会、国民同盟会、対露同志会に参加、対露強硬論を唱え、また日露戦争講和のポーツマス条約に反対して日比谷焼打事件(1905)に連座。1903年(明治36)以来、衆議院議員当選10回。立憲政友会に所属し、1915~1916年(大正4~5)原敬(はらたかし)総裁のもとで幹事長を務めた。国粋(こくすい)主義的思想の持ち主で、1925年加藤高明(かとうたかあき)内閣の司法大臣として治安維持法制定に参画、ついで1927年(昭和2)田中義一内閣の鉄道大臣となる。満蒙(まんもう)問題では強硬論を唱え、憲政会、立憲民政党内閣の幣原(しではら)外交路線と対立した。のち五私鉄疑獄事件に連座して入獄。出獄後、1937年日中戦争が起こると近衛文麿(このえふみまろ)首相に進言して対中国和平工作に奔走したが成功しなかった。昭和17年2月2日死去。
[鳥海 靖]
『岡義武他編『小川平吉関係文書』(1973・みすず書房)』
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小川平吉
おがわへいきち
[生]明治2(1869).12.1. 長野
[没]1942.2.5. 東京
弁護士,政治家。 1892年東京帝国大学法科を卒業後代言人 (弁護士) となったが,そのかたわら政治運動に加わり,東亜同文会の幹事として活躍した。一方,立憲政友会に入り,1903年長野県より立候補して衆議院議員に当選,日露戦争前の議会では政友会を脱党して開戦論者の急先鋒となった。日露戦争後,ポーツマス条約反対の国民運動を指導し,日比谷焼打ち事件を起して起訴されたが無罪となった。その後も当選を重ねるとともに,政友会に復帰し,領袖としての地位を固め,20年国勢院総裁,25年司法大臣,さらに 27年には鉄道大臣となったが,その在任中に端を発した5私鉄疑獄事件に連座し,36年の選挙で落選,有罪が確定し下獄,翌 37年仮出獄し政界の表面から引退した。しかし日中戦争の勃発後,中国問題の権威としてその解決策に深いかかわりをもち,39年ホンコンにおもむいている (→トラウトマン工作 ) 。なお小川の日記,書類などを集めたものとして『小川平吉関係文書』全2巻がある。
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小川平吉【おがわへいきち】
政治家。信州諏訪(すわ)郡富士見村の生れ。東大法科卒。1903年代議士となる。日露戦争では対露同志会の先頭に立って主戦論を展開。1925年加藤高明内閣の司法大臣,1927年田中義一内閣の鉄道大臣。極端な国粋主義者で鉄相時代に駅名標を右横書きにしローマ字を全廃。1929年の五私鉄疑獄に連座して政治生命は終わった。
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おがわへいきち【小川平吉】
1869‐1942(明治2‐昭和17)
政治家。長野県出身。帝国大学法科大学卒業後,弁護士を開業。1901年近衛篤麿の東亜同文書院に参加し,03年以降代議士当選10回。日露戦争に際し対露同志会の先頭にたって主戦論を展開し,講和条約反対の日比谷焼打事件で一時下獄。原敬総裁下の立憲政友会の幹事,総務委員,国勢院総裁を経て,加藤高明内閣の法相,田中義一内閣の鉄相をつとめる。29年在任中の五私鉄疑獄,売勲事件で実刑を受け政界を引退した。【金原 左門】
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小川平吉 おがわ-へいきち
1870*-1942 明治-昭和時代前期の政治家。
明治2年12月1日生まれ。弁護士となり,東亜同文会,対露同志会にくわわり対ロシア主戦論をとなえる。明治36年衆議院議員(当選10回)。政友会幹事長,加藤高明内閣の法相,田中義一内閣の鉄道相をつとめたが,昭和4年五私鉄疑獄事件にかかわって政界を引退した。昭和17年2月5日死去。74歳。信濃(しなの)(長野県)出身。帝国大学卒。
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