改訂新版 世界大百科事典 「小東荘」の意味・わかりやすい解説
小東荘 (こひがしのしょう)
大和国広瀬郡(現,奈良県北葛城郡河合町,広陵町の一部)の荘園。史料上は,大和の国衙領の太田犬丸名として1046年(永承1)に初めてあらわれる。これが東大寺領小東荘の前身である。東大寺と太田犬丸名との関係は,54年(天喜2)ころ,同名が大和における東大寺大仏供白米免田に指定され,東大寺が反別1斗の白米収納権をもって以来である。76年(承保3)白米免田は従前の浮免田を定坪と定める宣旨が下され東大寺領となった。1108年(天仁1)の国の検注帳を最後に太田犬丸名の呼称は史料からは消え,43年(康治2)に〈東大寺小東白米御荘坪付〉が作成されるまでの約30年の間に,国衙領の名であった太田犬丸名が東大寺領小東荘として寺領化されたと考えられる。その間に東大寺は白米免田の検注権を国衙から委譲され,かつ38年(保延4)ころには古くから太田犬丸名内に存在した私領,すなわち尼善妙所領の領有権をめぐって春日社との間に相論を展開し,康治2年坪付では往古の太田犬丸名以来のいくつかの私領をも含めて,東大寺の小東荘支配体制は進められた。44年(天養1)の国検に際して東大寺は荘域内の加納田・公田の寺領化を申請して許され一円寺領化を完成した。天養1年6月の小東荘坪付がそれを裏づけている。59年(平治1)大和の知行国主平清盛の国検実施に対して東大寺は免除の院宣をうけ,国使もこれを認めて小東荘は東大寺に安堵された。荘内の構成は,最初東大寺の支配の基本には白米上納責任者の名請人と,白米免田の生産者である上人が存在したが,一円寺領化が進むにつれて上人中心の名を編成し,この名を通して白米が徴収された。荘官としては春日社との相論時には小東荘下司がおり,また康治2年坪付の差出者として小東白米御荘司がある。史料的には,1183年(寿永2)の院宣以後は,鎌倉末期の悪党一王次郎行康に関する史料以外,この荘に関する史料はほとんど伝わっていない。
執筆者:橋本 初子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報