朝野新聞(読み)チョウヤシンブン

デジタル大辞泉 「朝野新聞」の意味・読み・例文・類語

ちょうや‐しんぶん〔テウヤ‐〕【朝野新聞】

明治前期の政論新聞。明治7年(1874)発刊。成島柳北末広鉄腸らが健筆をふるった。同26年廃刊

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精選版 日本国語大辞典 「朝野新聞」の意味・読み・例文・類語

ちょうや‐しんぶんテウヤ‥【朝野新聞】

  1. 明治初期の新聞。日刊。明治五年(一八七二)一一月創刊の「公文通誌」を前身とし、同七年九月に改題・発足社長成島柳北の雑録、主筆末広鉄腸の論説で人気を集め、民権論を推進し言論弾圧に対抗した。同二六年一一月廃刊。

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百科事典マイペディア 「朝野新聞」の意味・わかりやすい解説

朝野新聞【ちょうやしんぶん】

明治期に東京で発行された代表的な政論新聞。1872年創刊の《公文(こうぶん)通誌》を1874年改題。いちばん早く社説欄を設け,社長成島柳北,主筆末広鉄腸藩閥政府を痛烈に批判,自由民権運動を背景に部数をのばした。1886年犬養毅尾崎行雄らの入社で改進党機関紙的存在となる。1893年廃刊。姉妹紙に《絵入朝野新聞》がある。
→関連項目大新聞・小新聞小川芋銭町田忠治

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝野新聞」の意味・わかりやすい解説

朝野新聞
ちょうやしんぶん

1874年(明治7)9月24日『公文通誌』(1872創刊)を改題して発行された東京の日刊紙。当代一流の文人成島柳北(なるしまりゅうほく)が主宰し、初めて論説欄を設けた。この新聞が人気を集めたのは、政界や社会を風刺した柳北の洒脱(しゃだつ)な文章で、とくにその雑録は有名である。75年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例が布告され、記者に対する取締りが厳しくなったとき、蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))の「赤壁賦(せきへきのふ)」をもじって掲載(8月17日)した「辟易(へきえき)賦」は世人の喝采(かっさい)を博した。10月、末広鉄腸(てっちょう)が入社、論説を担当、以後硬軟取り混ぜた両者の筆によって人気をよび、政論新聞中随一の発行部数を誇った。しかし78年5月15日、大久保利通(としみち)暗殺の報道と斬奸(ざんかん)状掲載が当局ににらまれ、日刊紙初の発行停止処分を受けた。その後も国会開設、憲法制定、政府の言論取締り批判など民権派新聞として論陣を張った。84年11月成島が死ぬと、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄、町田忠治らが入社、改進党系の新聞になり、89年末広も退社、衰退の一途をたどる。その後、渡辺治(おさむ)、波多野承五郎が社長となり、犬養らも退社、大成会国民協会の機関紙の色彩を呈したが、内紛絶えず、93年12月廃刊する。同名の新聞がその後も出ている。

[春原昭彦]

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改訂新版 世界大百科事典 「朝野新聞」の意味・わかりやすい解説

朝野新聞 (ちょうやしんぶん)

明治前期に東京で発行された有力な政論新聞。1874年(明治7),《公文(こうぶん)通誌》(1872創刊)を改題して創刊され,93年に廃刊した。日刊。最盛期は,社長の成島柳北(なるしまりゆうほく)がコラム〈雑録〉で,主筆の末広鉄腸が論説で藩閥政府を風刺,痛罵した自由民権期であり,民権派の新聞として81年には日刊部数1万を超え,政論新聞第1位を誇った。成島の死亡や民権運動の衰退とともに急速に衰えた。なお姉妹紙に《絵入朝野新聞》がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝野新聞」の意味・わかりやすい解説

朝野新聞
ちょうやしんぶん

明治の自由民権運動の初期に活躍した新聞。その前身は 1872年 11月創刊の『公文通誌』で,74年9月に改題。同時に帰朝早々の成島柳北を社長に迎え,大槻磐渓が客員になり,柳北の「雑録」欄 (いわゆる社説) での時事批判が特に人気を呼んだ。翌年に讒謗律 (ざんぼうりつ) ,新聞紙条例が公布されると激しく政府を批判,柳北と,末広鉄腸がともに罰金禁獄の刑を受け,78年5月大久保内務卿暗殺者の斬姦状を掲載し,日本の新聞で初めての発行停止処分を受けた。 89年の大隈外相の条約改正に際しては,それを支持したので改進党の機関紙と目された。 92年6月に西郷從道を会頭として国民協会が組織されると,その機関紙となり,一転して改進党を攻撃し,声望を失墜。 93年 12月廃刊した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「朝野新聞」の解説

朝野新聞
ちょうやしんぶん

明治前期の政論新聞。1872年(明治5)11月に旧松江・明石両藩主の出資で東京で創刊された「公文(こうぶん)通誌」が,74年9月24日改題し日刊紙となった。局長成島柳北(なるしまりゅうほく)の雑録と編集長末広鉄腸(てっちょう)の論説で人気を博し,発行部数を伸ばした。政府批判は鋭く,76年に柳北は4カ月,鉄腸は8カ月の禁獄刑をうけ,78年には日刊紙で最初の発行停止処分をうけた。自由民権期には立憲改進党派と自由党派の連係の妙で政党機関紙化せず乗り切ったが,柳北の死後は社主乙部鼎の報道軽視路線のため凋落,93年11月20日廃刊。最盛期の発行部数約1万部。

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デジタル大辞泉プラス 「朝野新聞」の解説

朝野新聞

明治時代の日本の新聞。“朝野”は「ちょうや」と読む。1874年9月、「公文通誌」を改題して発行を開始。前身紙は官令などを紹介するだけの簡単な内容だったが、改題後は政論新聞となり成島柳北、末広鉄腸らが論客として活躍。民権派の新聞として支持を集めた。成島没後には犬養毅らが入社、改進党系の論調となる。その後衰退して1893年12月に廃刊。

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旺文社日本史事典 三訂版 「朝野新聞」の解説

朝野新聞
ちょうやしんぶん

明治前期の代表的新聞(1872〜93)
社長は成島柳北 (りゆうほく) ,編集長は末広鉄腸。民権派の立場をとり,藩閥政府を攻撃し,1878年日刊紙で最初の発行停止処分をうけた。'93年国民協会の機関紙となったが,まもなく廃刊。

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世界大百科事典(旧版)内の朝野新聞の言及

【大新聞・小新聞】より

…その政治論議は早期国会開設を要求する民権派と漸進的な開設を主張する官権派(御用新聞)とによって,かまびすしく展開された。民権派新聞には《郵便報知新聞》《朝野新聞》《東京横浜毎日新聞》《東京曙新聞》があり,官権派新聞には《東京日日新聞》があった。一方,小新聞は花柳だね,警察だねなどで特色を発揮していた。…

※「朝野新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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