小田郷
おだごう
上浮穴郡西南部を占める現小田町一帯の称呼。小田山ともいう。面積は上浮穴郡の約二〇パーセント。広奴田郷というのが中世以来の郷名であるが、古くこの地を大田山とよんだことから「おおた」が「おだ」に転じ、近世以降小田郷という称呼が一般化するに至った。享和元年(一八〇一)の「大洲旧記」には「浮穴郡広奴田郷小田山」と記す。
「伊予温故録」に「広奴田郷の古名を太田山といふ、其の以前は砥部郷の部内なるべし」とある。古く砥部郷(現伊予郡砥部町の中心部)から山間部への開拓が進行してその郷内に含められていたのが、やがて大田山とよばれ、のち広奴田郷と称されるに至ったと解せられる。「ひろぬた」という郷名の由来については「大洲旧記」本川村の条に「大瀬に深山口といふ所有。是より奥人里なかりしが、当村に土佐の者来て、稲を作り次第に四方伐開くといへども、猪多くしてぬた場にして有し故、広ぬた郷と云は、是より云」とある。猪の臥所の意味であるとする。
江戸時代の広奴田郷、すなわち小田郷は現小田町よりは広く、現伊予郡広田村の大半をも併せたものであった。「伊予温故録」によれば広奴田郷一八村は立石村・南山村・寺村・町村・本川村・中川村・上川村・大平村・日野川村・吉野川村・中田渡村・上田渡村・臼杵村(現小田町)、総津(惣津)村・多居谷村・猿谷村・中野川(中川)村・高市村(現伊予郡広田村)となっている。
小田郷
おたごう
「和名抄」にみえる球珠郡内の郷。「豊後国志」は「倭名鈔に小田と作るは誤りなり。蓋、山田も持って称する尚し。或いは今郷中に、小村の小田と名づく有り、因って旧名と為すは恐らく非なり」(原漢文)とし、玖珠川左岸の現玖珠町小田との関係を否定している。「箋釈豊後風土記」では「小田は山田に作るべし、伝写の致す所なり」としている。このように同町小田を当郷の遺称とすることには疑問も残る。大化前代には横穴の複式構造に彩色の装飾のほどこされた同町鬼塚古墳のほか、その南方の陣ヶ台彦塚・姫塚・将軍塚などが存在し、冷酒庵遺跡では古墳時代後期の住居跡群が確認されている。
小田郷
おだごう
「和名抄」諸本に「乎多」の訓がある。郷域について「大日本地名辞書」「岡山県通史」とも現小田郡矢掛町の小田・本堀・浅海・江良の地とする。郷名が郡名および歴代郡領の地位を世襲した小田臣の氏名と一致することは重要で、律令制下において郡内で政治的に中心的位置を占めていたことは間違いない。小田に郡上・郡前・郡脇などの地名があり、郡上には郡宮跡の伝承地もあり、小田郡の郡衙がこの地に存在したことは確実。浅海には毎戸遺跡がある。同遺跡は古代山陽道に南面する位置にあり、昭和四九年(一九七四)にその一部が調査された。それによると、コの字形配置を推定しうる三棟の掘立柱建物と「馬」と線刻された土師器坏や奈良時代の瓦などが検出されており、奈良時代から平安初期まで存続した官衙遺跡である。
小田郷
おだごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は小田川村(現白河市)・川崎村(現泉崎村)にあてる。「白河古事考」は「今白河の西に小田倉あり、東北に小田川あり、恐くは此二村の内か」とする。近世の小田倉村・小田倉新田村・小田新田村は明治一〇年(一八七七)合併して小田倉村となり、現西白河郡西郷村小田倉にあたる。
小田郷
おだごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。ヲタと訓じた場合、遺称地となる地名は見当らない。「吾妻鏡」建久四年(一一九三)一一月二三日条にみえる小野田郷(現長南町)と同じとする説があり、おそらく古代の二字政策により小田に改めたというのであろう。
小田郷
おだごう
「和名抄」東急本では「乎太」と訓を付す。いわゆる天平黄金出土の地とされ、「日本地理志料」では大沢(現遠田郡田尻町)、成沢(現同郡涌谷町)にわたる地とする。「吾妻鏡」仁治二年(一二四一)五月一〇日条によれば、「陸奥国小田保、追入、若木両村」をめぐって相論となっているが、中世には当郷も小田保のうちであったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の小田郷の言及
【小田[町]】より
…四国山地西端の山間地帯にあって,町の中央を西流する肱(ひじ)川の支流小田川の河谷に集落が集中する。かつて小田郷と呼ばれた地域で,中心集落は町村(まちむら)。町域の大部分が急傾斜地にあって耕地は階段状を呈し,タバコ,栗,シイタケの栽培,養蚕が行われる。…
※「小田郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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