江戸時代に幕府が小石川薬園内に設けた貧窮病人の施療所(せりょうしょ)。1722年(享保7)正月、一町医の小川笙船(しょうせん)(1672―1760)が目安箱(めやすばこ)に投じた上書が契機となって設置をみた。町奉行(まちぶぎょう)の支配に属し、与力(よりき)2人、同心(どうしん)6人が養生所掛として勤めた。収容規模は最初40人、翌年には100人、29年150人となったが、33年から117人となり、以後幕末まで変わらなかった。医師は9名(のち5名)で本道(ほんどう)、外科、眼科に分かれ、小川笙船の子孫が代々勤めたほか、寄合(よりあい)医師、小普請(こぶしん)医師らであったが、1843年(天保14)以降は町医師となった。運営費は最初は1か年750両であったが、宝暦(ほうれき)(1751~64)年中より840両とし、その金額は幕末まで変わらなかった。設立当初は入所希望者は多かったが、幕末では約半数となっている。天保(てんぽう)(1830~44)ころの内部は不衛生で、看病中間(ちゅうげん)の腐敗も甚だしかったという。
[南 和男]
『南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
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江戸時代,幕府により江戸に設けられた窮民の医療を目的とした施設。日本における官立病院のはじめといえるもの。町医小川笙船(しようせん)(1672-1760)の建議を徳川吉宗が採り,1722年(享保7)小石川薬園内に施薬局を設け,低所得の病人,看護する人がいない者などを収容し,これを養生所と称した(長崎にできた養生所と区別するため小石川養生所ともいう)。町奉行が管理し,与力・同心を属せしめ,小川笙船,林良適らの医師が出役し,本道(内科),外科,眼科があった。はじめ収容人員は40人であったがのち150人となり,その後減じて50人となった。経費は当初年額700両,のち840両であった。幕末まで存続し,1868年(明治1)に医学所の所管となった。現在,東京大学大学院理学系研究科付属小石川植物園内に当時の井戸のみが残されている。
執筆者:長門谷 洋治
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養生所とも。1722年(享保7)江戸小石川の町医師小川笙船(しょうせん)の目安箱への建議にもとづき,江戸幕府が小石川薬園内に設けた施療施設。江戸市中の貧困な病人の救護を目的とした。町奉行支配のもと,笙船・林良適ら医師団と与力・同心など役人らからなる。収容人数ははじめ40人だったが,23年に100人,29年には150人に増加,江戸庶民の医療に大きな役割をはたした。1868年(明治元)医学所の所属となる。
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…また板ぶきの屋根を瓦ぶきにするなど,その不燃化に力をいれた。そのほか江戸下層社会の貧窮者を救うために小石川養生所をつくった。彼は日本歴史でもまれにみる有能な実務官僚であったが,有名な〈大岡政談〉の話は実際の彼とはほとんど関係がなく,政治家とはかくあれかしという庶民の願望が託された架空譚である。…
※「小石川養生所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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