茨城県中央部の市。2006年3月小川(おがわ)町,美野里(みのり)町と玉里(たまり)村が合体して成立した。人口5万2279(2010)。
小美玉市南東部の旧町。旧東茨城郡所属。人口1万9332(2005)。霞ヶ浦北岸,行方(なめがた)台地の北部を占め,霞ヶ浦,北浦に流入する小河川が樹枝状に谷津田をつくる。中心集落の小川は江戸時代,那珂湊から江戸に至る物資輸送の中継点で,水戸藩の運漕奉行所が置かれていた。文化年間(1804-18)には稽医館が設立され,西洋医学の研究が行われた。明治後期以降,常磐線の開通によって水運が衰えるとともに町勢は停滞した。畑作地域で,ゴボウなどの野菜や葉タバコを産し,また深井戸による陸田化も行われた。近年では養鶏(卵)が野菜生産を上回る。草ぼうきの製造が行われるが,原料は輸入品による。東部の台地百里原には1937年,海軍航空隊の基地がつくられ,現在は航空自衛隊百里基地となり,2010年茨城空港が共用飛行場として開港した。鹿島鉄道(2007年廃止)の常陸小川駅は園部川対岸の旧玉里村にあった。
小美玉市南西部の旧村。旧新治(にいはり)郡所属。人口8882(2005)。霞ヶ浦北岸,石岡市の東に位置し,西部は台地,東部は霞ヶ浦に注ぐ園部川沿いの低地である。養豚と並んでレンコンなどの野菜や梨,柿などを産する。1964年に鹿島鉄道新高浜駅周辺に玉里工業団地が造成され,現在,プラスチック,機械,飼料などの工場が操業している。縄文前期の八幡脇貝塚,6世紀中ごろの築造とされる舟塚古墳がある。
小美玉市北部の旧町。旧東茨城郡所属。人口2万5051(2005)。東茨城台地に位置し,南西部に園部川,北部に巴川が流れる。JR常磐線と国道6号線が通じる。堅倉(かたくら),竹原は江戸時代,水戸街道の宿駅として栄えた。また堅倉は昭和初期に県内でいち早く集団的酪農が行われたところで,現在も酪農,養豚など畜産が盛ん。加工用トマトなどの野菜やラッカセイ,栗などの栽培も行われる。1960年代後半以降,工場進出が始まり,常磐線羽鳥駅周辺や国道沿いで食品工場のほか,ゴムやプリント製品などの工場が操業している。70年ころから急速に宅地開発が進み,人口も増加している。
執筆者:千葉 立也
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茨城県中部に位置する市。2006年(平成18)、東茨城郡小川町、美野里町(みのりまち)、新治(にいはり)郡玉里村(たまりむら)が合併して市制施行、小美玉市が成立。市名は合併した3町村から1字ずつをとった。市域は霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ園部(そのべ)川と北浦に入る巴(ともえ)川の沿岸低地、および両低地の間に発達した台地上に展開し、南は霞ヶ浦に面する。西端部をJR常磐(じょうばん)線、国道6号、355号、常磐自動車道が通り、北隣の笠間(かさま)市岩間(いわま)インターチェンジが近い。西部の大谷(おおや)には1180年(治承4)源頼朝に討たれた佐竹義政の首塚が残る。中世には平国香(くにか)の子孫大掾氏(だいじょううじ)が勢力をふるい、1559年(永禄2)には竹原(たけはら)に大掾義国(竹原義国)が城を築いている。江戸時代、小川村の河岸は水戸藩領から園部川・霞ヶ浦を経て江戸に通ずる水運上の要所となった。水戸藩の運漕奉行(うんそうぶぎょう)所が置かれ、町場も形成された。また藩の郷校稽医館(けいいかん)(後の小川郷校)も開かれた。下吉影(しもよしかげ)、上吉影は巴川水運の河岸場で、堅倉(かたくら)は水戸街道の宿場であった。
主産業は農業で、米作のほかレンコン、ニラ、イチゴ、メロン、柿、梨、栗やトロロアオイ(製紙用のりの原料)などを栽培。北部では酪農が盛ん。霞ヶ浦沿岸では漁業も行われている。石岡(いしおか)市に隣接して南西部には工業団地があり、プラスチック、鉄鋼などの工場が進出。東部に茨城空港、航空自衛隊百里基地(ひゃくりきち)がある。面積144.74平方キロメートル、人口4万8870(2020)。
[編集部]
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