小諸(市)(読み)こもろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小諸(市)」の意味・わかりやすい解説

小諸(市)
こもろ

長野県の中東部、浅間山(あさまやま)の南西麓(ろく)に位置し、千曲川(ちくまがわ)に臨む高原都市。1954年(昭和29)小諸町を中心に北大井、大里川辺(かわべ)の3村が合併。同年小諸町と三岡(みつおか)、南大井の2村が合併して市制施行。中心の旧小諸町をはじめ農村部は旧川辺村を除いて浅間火山の緩やかな標高700~800メートルの斜面に位置し、厚い火山灰泥流の土壌地帯である。川辺は千曲川の左岸で蓼科火山(たてしなかざん)から御牧ヶ原(みまきがはら)に続く末端にあって地形的には異質である。市街地は近世北国(ほっこく)街道の宿場をなし、城下町としても発展してきた。このため、佐久(さく)盆地一帯への玄関口となり、かつてはJR信越本線小諸駅から佐久盆地を南北に縦走するJR小海線(こうみせん)を分岐し、これに並行して国道141号も走り、市街を通る国道18号(旧、北国街道)とともに市街地の骨格を形成していた。しかし、1997年(平成9)に開業した北陸(長野)新幹線の駅は隣接する佐久市に設置され、JR信越本線は第三セクターしなの鉄道となり、通勤・通学以外の乗降客は少なくなった。上信越自動車道の小諸インターチェンジは市街の西北方に設置されたが、往時の交通上の地位を失った。

 市は活性化対策として、歴史小諸城跡など)・文化(島崎藤村の文学的遺品、美術館)・自然(浅間火山、温泉、高峰スキー場)などを中心に観光・文化都市を目ざし、市街地の外郭循環道や軽井沢と結ぶ浅間山麓広域農道(通称浅間サンライン)、国道141号のバイパスなどの整備も完了した。

[小林寛義]

歴史

小諸の地名は、平安時代この付近の火山裾野(すその)一帯が牧場で、大室(おおむろ)、小室の郷(ごう)とよばれ、のちに諸(もろ)の郷となって、この諸の一部として小諸となった。中世、ここに小室氏が館(やかた)を構えた。現在の市街地形成の起源は、戦国時代武田氏が佐久侵略の際に滅亡した大井氏の後を継いでここに小諸城を築き、さらに近世初期仙石(せんごく)氏が城を修理した際に城下町を整備したのに始まる。1702年(元禄15)以後は牧野氏1万5000石の城下町であった。城は地形的にはもっとも低い市街の西端、千曲川の断崖(だんがい)上にあって、市街はこれより高所に位置するような配置であった。小諸の町は、近世から明治中期までは県下有数の商業の町で、佐久、上田地方一帯にかけての卸売業が主であったが、その後昭和初期まで製糸工業が盛んであった。第二次世界大戦後は道路交通の発達で小海線の重要性は低下し、市街は平坦(へいたん)地がないため拡大の余地がないなど市況はやや停滞ぎみである。

[小林寛義]

産業・観光

1980年代から工業団地が造成され、電機・一般機械などの工場が進出しているが、長野新幹線の駅が設置されず、佐久盆地の玄関口としての地位を失ったため、工業も大きな影響を受けた。市は工業振興に力を入れているが、製造品出荷額等は県下19市中15位(2010)で、市の中核産業にまでは育っていない。農村部はモモ、リンゴ、クルミなどのほか、標高750メートルの高冷地を生かしたレタス、キャベツなどの高原野菜の栽培が盛んである。おもな観光資源には浅間火山の広大な裾野一帯の別荘地、高峰(たかみね)高原や、小諸城跡(懐古園(かいこえん))、徴古(ちょうこ)館、市立藤村(とうそん)記念館、旧小諸本陣、釈尊(しゃくそん)寺(布引(ぬのびき)観音)、御牧ヶ原別荘地、菱野(ひしの)・中棚(なかたな)温泉などがあり、軽井沢と結ぶ浅間山麓の一大観光地化を試みている。市街地は南方佐久市方面へ延びている。面積98.55平方キロメートル、人口4万0991(2020)。

[小林寛義]

『『小諸市誌 第2編』(1958・小諸市学校教員会)』『『小諸の歴史』(1971・小諸市)』


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