生没年不詳。浄瑠璃(じょうるり)の起源とされる牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語である『十二段草子(じゅうにだんそうし)』(浄瑠璃姫物語)の作者と伝えられる女性。織田信長ないしは信長夫人、または豊臣(とよとみ)秀吉・秀吉夫人の侍女とも、東福門院・新上東門院の侍女とも伝えられるが不明。大日本史料では小野正秀の娘で秀吉夫人の淀君(よどぎみ)に仕えたとされる。いずれにせよ浄瑠璃姫の伝説自体はお通よりはるか以前から存在しているので、今日では『浄瑠璃姫物語』の作者ではなく、曲節をつけて語るように改作した人物とする説が有力になっている。
[古井戸秀夫]
1598年(慶長3)、秀吉主催の醍醐(だいご)の花見に参会者が残した「醍醐花見短籍」(京都・醍醐寺)のなかにお通のものが2枚現存し、彼女が当時、大坂城圏内にあったことを示唆する。書道史上、彼女は当代を代表する女筆としてうたわれ、ほかにも字隠し絵風の柿本人麿(かきのもとひとまろ)像や達磨(だるま)図など、才知に富む洒脱(しゃだつ)な自画賛ものも伝存し、その筆跡は後年、手本として板行されている。
[松原 茂]
浄瑠璃の起源となった《浄瑠璃物語(十二段草子)》の作者といわれる女性。阿通,於通とも記される。近世になって浄瑠璃が盛んになるにつれて,浄瑠璃の起源についてのいろいろな説が生まれ,その作者についても当時の権力者に近い実在の才女にあてようとする説が作り上げられた。お通は織田信長,あるいは豊臣秀吉の御台政所(淀君とも)の侍女で,才女のほまれ高く,主君の命により,紫式部にならって《浄瑠璃物語》を作ったという。また,秀次の家人塩川志摩守の妻となって1女をもうけ,離別の後,新上東門院に仕え,1616年(元和2)58歳で没したともいわれる。しかし,浄瑠璃は《宗長日記》によれば1531年(享禄4)にはすでに行われていたことが確かなので,これらをすべて信じることはできない。お通は,女性の語り手によって育成されていった語り物の編集者・改作者であったとする説や,鳳来寺山麓に幾人もの小野お通を想定する説などもある。
執筆者:鳥居 フミ子
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(安田富貴子)
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