小野城跡
おのじようあと
小野町の古里集落北側の標高九〇メートルの地にある。字殿内地内の東端に幅一〇メートル、長さ四〇メートル、深さ五メートルの堀と大小二本の土塁があり、字大堀地内には南北二五メートルの堀・土塁がみられ、字八幡・木下・大堀にかけて山茶椀、各種の土師器片が多量に散布している。
「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)五月六日条に同年四月に起こった三日平氏の乱を平定した京都守護平賀朝雅は、乱の張本が伊勢平氏の一流若菜五郎(盛高)で、その城郭が「伊勢国日永・若松・南村・高角・関・小野等」にあったこと、若菜五郎は関小野において敗死したことを報告している。ここにいう小野は北野とも伝え(吉川本「吾妻鏡」同日条)、この地方に若菜氏一党が構えた城塞は小野村字殿内および大堀と、木崎村(現鈴鹿郡関町)西北丘陵上の三日城との二ヵ所があったといい(鈴鹿郡野史)、その跡には深さ一丈、幅三間、長さ五〇―一〇〇間の堀跡が残ったという(伊勢名勝志)。
小野城跡
おのじようあと
[現在地名]鳴瀬町小野
小野橋東端から北に五〇〇メートルほどのところにある丘陵笹ヶ森山(約三〇メートル)の頂上にある。桜ヶ森館ともよばれる。南東へ一〇〇メートルほどの通称御館山には梅ヶ森館跡があり展望がよい。また東方功岳寺裏の青木山には松ヶ森館跡がある。梅ヶ森館と松ヶ森館は小野城の出城と考えられている。しかし「仙台領古城書上」には東西二七〇間、南北三〇間と記され、規模から梅ヶ森館をさすと推定され、同館が本城であったとする説もある。小野城は南北に郭があり、南郭は約一〇〇メートル四方の本丸跡と推定される平地と階段上の土壇によって構成され、空堀や井戸跡も確認される。
小野城跡
おのじようあと
[現在地名]雄勝町泉沢 古館
泉沢と小野のほぼ中間、宝竜ヶ沢の山頂にあり、三方は断崖、尾根続きの部分は堀切となっている。東を雄物川が流れ、平地との比高約一二〇メートル。
宝竜館・舞鶴城ともよばれ、鎌倉時代に築かれたものとみられるが委細は未詳。「柞山峯之嵐」に「小野寺の臣町田長右衛門土民を集めて楯籠る(中略)元来無双の要害にして院内川を前に帯、岩石屏風の如くに峙て登るに十余丁古木茂生して案内知れす」とあり、小野寺氏の支城の一であったが、文禄二年(一五九三)最上勢と戦い落城したと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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