尾原村(読み)おばらむら

日本歴史地名大系 「尾原村」の解説

尾原村
おばらむら

[現在地名]加茂川町尾原

井原いはら村・豊岡とよおか村の北、豊岡川沿いのやや開けた谷間および備中国上房じようぼう郡との境界部の山地に位置し、大山往来が通る。寛永備前国絵図に村名がみえ、高六一九石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高二六八石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)正保郷帳には枝村として知守ちもり村が載る。「備陽記」では田畠六五町六反余、家数一三一・人数七〇一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千二六五石余は家老金川かながわ陣屋(現御津町)日置氏給地。

尾原村
おはらむら

[現在地名]鶴田町尾原

東は木筒きづつ村の支村後中野うしろなかの村、西は廻堰まわりぜき村、南は野木のぎ村の支村間山まやま村、北は廻堰村の支村田ノ尻たのしり村に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳に廻堰村支村尾原村とあり、田方四四町二反三畝一五歩、畑方二町五反三畝一七歩、田畑屋敷合せて四六町七反七畝二歩、村高三四九・四七九石、百姓一五人と記される。元禄三年(一六九〇)には藤代組に属し、村位は下である(平山日記)。貞享四年の検地帳の貼紙によれば、享保一一年(一七二六)郷村改の際本村に取立てられた。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に二〇一・二石、文化九年(一八一二)に一六二・七石の新田高が書上げられている。

尾原村
おわらむら

[現在地名]倉吉市尾原

別所べつしよ村の南東、由良ゆら川の支流円城寺えんじようじ川左岸に位置し、久米くめはら台地の末端にあたる。小原とも記された。天正八年(一五八〇)六月一二日の吉川元春書状(閥閲録)によれば、吉川元春は久米くめ郡のうち小原三〇〇石などを福頼左衛門尉に与えるとしており、これ以前は南条元続の支配下にあったと考えられる。藩政期の拝領高は二七九石余、本免五ツ九分。倉吉組士の金井・小谷・荒尾各氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高三〇〇石余、竈数二〇余。

尾原村
おばらむら

[現在地名]倉敷市尾原

やま村の西、瑜伽ゆが(二七三・一メートル)の北谷間に位置し、瑜伽詣の北参道にあたり丁石がある。「備前記」「備陽記」には枝村として黒谷くろだにを記す。清田きよた八幡宮の元和元年(一六一五)の上葺再興棟札に小原村とある。正保郷帳には小原村とみえ、高三二五石余。享保六年(一七二一)の田畠二四町六反余、池一五、家数一〇二・人数六九八(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高三二五石余、直高五八七石余で池田和泉の給地、田二〇町余・畑四町二反余、池二五、樋三一・御郡方構池樋四、井戸七、石橋三、家数一三〇・人数七五〇、寺一軒(慈眼院)・社家一軒、牛九一、猟師鉄炮一、紺屋五軒(藍瓶五本)

尾原村
おばるむら

[現在地名]野津町西畑にしはた 尾原

谷平たにがひら村の南東、北西流する吉田よしだ南西岸にある。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には「小原村」が谷ヶ平村など二ヵ村分と一括された一冊が含まれ、この「小原村」が当村にあたるとみられる。村位は上。同一一年の惣御高頭御帳にも小原村とあり、高一四六石余。下畑組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四六石余・畑方一一六石余。

尾原村
おはらむら

[現在地名]野津原町荷尾杵におき 尾原

七瀬ななせ川右岸の荷小野におの村の東に位置する。大野郡に所属。文禄二年(一五九三)中川秀成領となり、慶長六年(一六〇一)収公(田北家文書)、翌七年岡藩中川領に復したと考えられ(大分県史)、幕末まで同藩領。正保郷帳に村名がみえ田高一四石余・畑高二一石余、藤北ふじきた郷に含まれ、柴山有、日損所と注記される。

尾原村
おばらむら

[現在地名]木次町平田ひらた

西流する斐伊川上流に位置し、西は平田村、南はいし村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高一八六石余、寛文四年(一六六四)には本田高一八四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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