履き物(読み)はきもの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「履き物」の意味・わかりやすい解説

履き物
はきもの

足の保護、整容のために着装するものの総称。袋状になって足全体を覆うものが靴、沓(くつ)、糸鞋(いとぐつ)、襪(しとうず)(後世は足袋(たび))の類で、有職故実(ゆうそくこじつ)では履の文字を「くみ」と読ませている。襪と足袋との区別は、指先が二分しているか否かの相違である。これらには鼻緒がないのが特色である。一方、鼻緒がついていて、これを利用して履くものが下駄(げた)、草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)の類である。これらの履き物は、その種類によって材料を異にするが、だいたいは皮革、藁(わら)、木材、布帛(ふはく)、化繊、ゴム、合成樹脂などが用いられ、単独の材料を使ってつくりあげるものと、何種かの材料を用いてつくりあげるものとがある。近代以降の履き物にはとくに後者が多く、代表的なものは草履と靴である。また特殊な履き物としては、農村、とくに泥田地帯で用いられる田下駄、豪雪地帯での「かんじき」がある。

[遠藤 武]

日本

現代でも南方諸国のなかには、はだしを一般的とする民族もあるが、日本においても明治初期に跣足(はだし)禁止令が出されるまでは、日常的に目にするところであった。3世紀に書かれた中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、日本人は「皆(みな)徒跣(はだし)」と記されており、この記事は日本の西南地方のことを書いたものといわれるが、古くは人々ははだしの生活をしていたのであろう。しかし弥生(やよい)時代後期になると、登呂(とろ)遺跡から多数の田下駄が出土している。これは登呂(静岡市)が河原に堆積(たいせき)した土に営まれた水田集落であったため、田下駄を用いて農耕をしたものと考えられる。古墳時代に入ってからは金銅製の履(くつ)や、木製の屐(げき)の出土がみられ、また人物埴輪(はにわ)のなかには履き物姿のものもあり、この時代から履き物の歴史が判然としてくる。また履の下に履く襪(下履(したぐつ)の意)も用いられたことが記紀によって知られる。

 603年(推古天皇11)に、中国の隋(ずい)の服制に倣って冠位制度を取り入れてから、衣服制定に一つの決まりを生じ、身分、階級によって衣服ばかりでなく履き物にも規定ができた。ことに大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されてからは、男子は礼服(らいふく)の際には錦襪(にしきのしとうず)、烏皮靴(くりかわのくつ)、朝服のおりには白襪に烏皮履(くりかわのくつ)、制服には白襪に皮履あるいは草鞋(わろうず)とした。女子は礼服の際、三位以上であれば錦襪に緑舃(くつ)、四位以下は烏舃(くろのくつ)、朝服には白襪に烏皮舃と規定された。ちなみに礼服(らいふく)とは今日の儀式服つまり礼服(れいふく)であり、朝服とは参朝服、つまり今日の出務服で、制服は無位の官吏が着用する服のことである。官位制度は最初十二階であったが、大化改新後十三階、十九階、さらに二十六階と複雑化したため、100年を経過しないうちに廃止されて、衣色制度となった。平安時代に入ってからは、天皇が詔勅を出して唐制模倣に拍車をかけることになるが、遣唐使が停止されてからは日本的な気風がおこり、宮中、公家(くげ)、武家あるいは僧侶(そうりょ)たちの階層やその用途による履き物の変化が生じた。履き物の種類として、靴の類では舃(せきのくつ)、靴(かのくつ)、半靴(ほうか)、馬上靴(ばじょうのくつ)、浅履(あさぐつ)、毛履(けぐつ)、鞋(かい)の類では挿鞋(そうかい)、錦鞋(きんかい)、線鞋(せんかい)、麻鞋(まかい)、草鞋(わろうず)などがあり、また草履類では、浄履(じょうり)、金剛(こんごう)、下々(げげ)、乱緒(みだれお)、舌地(したじ)、裏無(うらなし)、緒太(おぶと)、尻切(しきれ)、また屐子(あしだ)などが用いられた。

 鎌倉・室町時代になると、武家の台頭によって、挙動に便利な草履、草鞋(わらじ)が多く用いられ、靴類の使用は低下した。『七十一番職人歌合(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ)』のなかに、草履や足駄つくりの絵がみられるのも、時代を反映しているものといえる。草履類では、戦乱によって足半(あしなか)の利用が高まり、草鞋以上に用いられた。さらに指で鼻緒を挟む履き物としての草履の普及は、足袋の着用を盛んにした。武家社会では足袋を履くのにも一つの故実が生まれ、足袋御免という制度さえできて江戸幕府崩壊まで続いた。

 江戸時代、町人生活の向上と貨幣経済の発達によってしだいにぜいたくになり、草履よりも下駄の発達が目覚ましくなった。従来の下駄は足駄で、大部分は露卯(ろぼう)の下駄(げた)が中心であったが、元禄(げんろく)(1688~1704)以後は、ただの差歯(さしば)下駄にかわったばかりでなく、足駄より低いものが好まれ、日和(ひより)下駄の流行をもたらした。一方、駒(こま)下駄というくりぬき下駄も、貞享(じょうきょう)年間(1684~1688)より行われ、さらに塗り下駄あるいは表付きの下駄、周りにビロードや革を張った中貫(なかぬき)と称するものなどもできた。下駄が広く用いられるにつれて、男女の塗り下駄禁止令が出され、風俗が華美に流れるのを止めようとすることもあったが、時世に打ち勝つことはできなかった。幕末には、下駄に吉原、羽根虫、堂島(どうじま)、中折(なかおり)、引付(ひきつけ)下駄をはじめ、歌舞伎(かぶき)の世界から、芝翫(しかん)下駄、半四郎下駄などが出て、婦女にもてはやされた。

 開港に伴う欧米人の来航から洋靴がもたらされ、武術の洋式調練、さらには貿易商などに用いられ、文明開化とともに洋靴の使用が普及し、製造も行われることとなった。女性に洋靴が用いられたのは、鹿鳴館(ろくめいかん)時代の服装にあわせてのことであり、生活改良運動の台頭とともに学生の間に広がっていった。ことに大正時代に入って、生活の合理化から洋靴を履くことが普及し、革ばかりでなくゴム靴やズック靴も用いたりした。

[遠藤 武]

西洋

西洋風の履き物は靴類をいうが、広義には靴下類も含まれる。一般的には、靴、サンダル、スリッパなどと、個別的名称でよばれることが多い。靴類は、短靴や長靴のように足部を覆い包む閉鎖的履き物と、サンダルやスリッパのような、足の裏の保護を主とする開放的履き物に大別される。厳密な意味では、スリッパは靴に含まれない。気候、風土によって形や素材に特徴がみられ、温暖な地方には開放的履き物が発生し、寒冷な地方には閉鎖的履き物が発生したと考えられる。履き物のおもな目的は荒地や寒地、熱砂地などでの歩行時の足の保護であったといわれている。また、装飾や身分の表示なども、重要な役割であったようである。現代の閉鎖的靴類は足指を圧迫する形のものが多く、その常用は足指の変形を招きやすい。年配の婦人にみられる外反(がいはん)親指はその例である。開放的履き物は足筋の発達にはよいが、歩行能率は多少劣る。

 古代エジプトには、開放的履き物の原型の一つであるサンダルがある。パピルスやシュロを編んだものや、皮や木を足底とし長い前緒を足首の鐙(あぶみ)形の紐(ひも)につなげて足に固定して履いた。新王国時代には染めた皮で入念に仕立て、宝石や金細工飾りのあるものも登場した。サンダルを履くのは神官、王、貴族などに許された特権であったが、より高位者の前では脱いだし、聖域では履かなかった。これは古代オリエントに広く分布した習俗であったようである。初期王朝時代には、サンダルは儀式や謁見など必要なときにだけ履き、目的地までは従者に持たせるなど、たいせつに扱われていたらしい。一方、古代メソポタミア地方では、気候のせいか皮や毛皮の靴や半長靴が多い。また、かかとを覆う形のサンダルもみられる。古代ギリシアの履き物の主体は、皮製の開放的なサンダルであるが、ふくらはぎ丈の編上げ長靴バスキンbuskinもあった。女性用はさまざまの色があり、刺しゅうや金の装飾などがなされた。厚底のコトルノスKothornosは、悲劇俳優が舞台で背を高く見せるために履いた。奴隷はやはり裸足であった。少し遅れて、閉鎖的履き物の一つの原型であるモカシン型の靴(1枚の皮を縮めて足を包む形式のもの)も、ある種の労働用として登場した。これらは基本的には古代ローマに踏襲されたが、多様化し、東方や北方の民族の影響から閉鎖的靴も多くなる。カルケウスcalceusやカンパグスcampagusなどである。このころ、北ヨーロッパの人々はモカシン型の靴を主とし、木底のついた、なめさない皮や毛皮のブーツ、単純な皮紐付きサンダルなどを履いていた。長い脚絆(きゃはん)や毛織物の靴下も用いられた。これらはヨーロッパの中世に引き継がれて発展し、今日的履き物の基本型となった。

 中世、製靴は専門化し、12、13世紀には各地に靴組合ができた。ビザンティン時代には鮮やかに染めた皮や絹織物に、金糸や真珠で刺しゅうのある豪華なものが上流の人々に履かれ、つまさきがややとがってくる。14、15世紀、ゴシック期には服飾の鋭角的な特徴とともに、このつまさきのとがりは極端になり、男性用靴のつまさきには形を保持するために詰め物をし、鎖で膝(ひざ)や靴の上端に支えるものも現れ、各地で法規制がたびたび出されている。たとえば、イギリスのエドワード3世(1327―1377)は、「2インチ以上つまさきの長い靴やブーツを履いた者は40ペンスの罰金を課する」と禁令を出した。しかし効果なく、18インチ(約45センチメートル)以上のものまで登場した。この長いつまさきの靴はポーランドから伝播(でんぱ)されたといわれ、プーレーヌpoulaine(フランス語)とかクラコウcrakow(英語)とよばれた。バイヤス仕立ての長靴下が履かれたが、底革がついたものもあった。中世の道は悪く、ぬかるんでいたので、雨の日や外出には木製のサンダル型のパテンpattenを靴に重ねて履いた。農民用にはヤナギやブナ材をくりぬいてつくった木製サボsabot(フランス語)やクロッグclogがあり、今日まで引き継がれている。16世紀、ルネサンス期になると、服飾に歩調をあわせて靴は角型扁平になる。女子には東方起源といわれる木の高台付きのチョピンchopinが、背を高く、姿よく見えるように用いられた。

 16世紀末には靴がほぼ今日的な形に落ち着き、ハイヒールの浅靴が登場、17、18世紀には全盛となり、ルイ・ヒール(付け根が太く、先が細いヒール。後部が前方に、前部が底一面にカーブしている)などの定型ができる。赤いヒールは宮廷人のものであった。17世紀前半、騎士風の流行とともに、履き口が大きく折り返ったブーツが流行する。フランス革命時には、木靴がパンタロンとともに革命派の象徴的服装となる。19世紀は服飾の流行がめまぐるしく変化したときで、服装にあわせてブーツや短靴が履き分けられた。一方、ゴムやズックなどの新素材の利用や、製靴用ミシンの発明によって、靴の機械製造が開発され、とくにアメリカでは既製靴化が進み、20世紀にはさらに発展し各国に及んだ。スポーツの盛行によって各種スポーツ靴が登場し、改良されて豊富になった。第一次世界大戦後、スカート丈が短くなるとともに履き物は重要な要素となった。1920年代には肌色絹の長靴下が普及し、第二次世界大戦後にはさらに薄地のナイロン長靴下が、それにとってかわった。1920年代に男子靴は低いヒールの現代型短靴となった。合成樹脂や合成皮革、性能のよい接着剤の開発によって大量生産がいっそう進んだ。1960年代にはミニスカートの流行に伴って女性の長いブーツが登場し、以来一般の婦人用として定着した。

[田中俊子]

『今西卯蔵著『はきもの変遷史』(1950・同書刊行会)』『宮本勢助著『民間服飾誌履物編』(1933・雄山閣)』『平出鏗二郎著『東京風俗志 中巻』(1959・冨山房)』『潮田鉄雄著『ものと人間の文化史 8 はきもの』(1973・法政大学出版局)』


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