デジタル大辞泉
「山下新太郎」の意味・読み・例文・類語
やました‐しんたろう〔‐シンタラウ〕【山下新太郎】
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やました‐しんたろう【山下新太郎】
- 洋画家。東京出身。東京美術学校卒業後、フランスに留学。ルノワールの影響を受ける。帰国後、同志と二科会を創立。再渡仏し、二科会を退き、一水会を創立。日本に本格的な印象主義をもたらした。昭和三〇年(一九五五)文化功労者。芸術院会員。代表作「読書」「靴の女」。明治一四~昭和四一年(一八八一‐一九六六)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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山下 新太郎
ヤマシタ シンタロウ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 明治14(1881)年8月29日
- 没年
- 昭和41(1966)年4月10日
- 出生地
- 東京・根岸
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画選科〔明治37年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- レジオン・ド・ヌール勲章〔昭和7年〕,文化功労者〔昭和30年〕
- 経歴
- 美校で黒田清輝の指導を受け、明治38年渡仏、ラファエル・コランらに師事。古典の摸写、ルノアールの感化を受け43年帰国。第4回文展で「靴の女」「読書」、44年第5回文展で「窓際」が入選。大正3年二科会創立に参加。昭和6年再渡欧、7年帰国。10年二科会を脱会、帝国美術院会員。11年有島生馬、石井柏亭らと一水会を創立。12年芸術院会員。36年日展顧問。著書に「油絵の科学」。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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山下新太郎【やましたしんたろう】
洋画家。東京生れ。東京美術学校で黒田清輝に学び,1904年卒業後渡仏してコラン,コルモンに師事,A.ルノアールの影響を受け,1910年帰国。1914年二科会の創立に参加,1935年帝国美術院会員,1936年一水会を結成した。印象派風の穏健な作風で,代表作は《読書》《供物》など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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山下新太郎
やましたしんたろう
(1881―1966)
洋画家。東京生まれ。1904年(明治37)東京美術学校(現、東京芸術大学)西洋画科を卒業し、東京外国語学校(現、東京外国語大学)、暁星高等学校でフランス語を学び、1905年パリに渡って初めラファエル・コランに、ついで国立美術学校に入りフェルナン・コルモンFernand Cormon(1845―1924)の指導を受ける。スペイン、イタリアに旅行のほか、サロンに出品。ベラスケス、とくにルノワールの強い感化を受け、明治末の日本に本格的な印象主義を反映した。1910年帰国し、同年と翌年の文展で連続三等賞を受け、1914年(大正3)同志と二科会を創立する。1931年(昭和6)から翌年にかけて再渡仏。1935年に帝国美術院会員となり、二科会を退会し、翌年同志と一水会を創立。1955年(昭和30)文化功労者に選ばれ、1961年日展顧問となる。一貫してさわやかな印象派の作風を示した。代表作は『窓際』『読書』『靴の女』『端午(たんご)』。
[小倉忠夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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山下新太郎
やましたしんたろう
[生]1881.8.29. 東京
[没]1966.4.11. 東京
洋画家。藤島武二に師事し,1904年東京美術学校西洋画科選科を卒業。 05~10年フランスに留学し,R.コラン,F.コルモンに学ぶとともにルノアールの影響を受け,印象派の画風を積極的に摂取。帰国後,11年の第5回文展に外光派風の清新な作品『窓際』 (1908,東京国立近代美術館) を出品して注目された。 14年二科会の創立に参加したが,35年帝国美術院会員となったのを機に同会を脱退,翌年安井曾太郎らと一水会を創立。 55年文化功労者。主要作品『靴の女』 (08,東京国立近代美術館) ,『端午』 (15) ,『少女坐像』 (41) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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山下新太郎 やました-しんたろう
1881-1966 明治-昭和時代の洋画家。
明治14年8月29日生まれ。パリでコラン,コルモンにまなび,ルノアールに傾倒。印象派風作品「読書の後」「靴の女」などを文展に出品,注目をあびた。二科会,のち一水会の創立に参加。昭和30年文化功労者。昭和41年4月10日死去。84歳。東京出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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山下 新太郎 (やました しんたろう)
生年月日:1881年8月29日
明治時代-昭和時代の洋画家
1966年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の山下新太郎の言及
【印象主義】より
…この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。…
【明治・大正時代美術】より
…これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885‐1959),柳敬助(1881‐1923),津田青楓(1880‐1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883‐1950),山下新太郎(1881‐1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880‐1951),[高村光太郎]らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。…
※「山下新太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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