明治〜昭和期の洋画家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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洋画家。東京生まれ。1904年(明治37)東京美術学校(現、東京芸術大学)西洋画科を卒業し、東京外国語学校(現、東京外国語大学)、暁星高等学校でフランス語を学び、1905年パリに渡って初めラファエル・コランに、ついで国立美術学校に入りフェルナン・コルモンFernand Cormon(1845―1924)の指導を受ける。スペイン、イタリアに旅行のほか、サロンに出品。ベラスケス、とくにルノワールの強い感化を受け、明治末の日本に本格的な印象主義を反映した。1910年帰国し、同年と翌年の文展で連続三等賞を受け、1914年(大正3)同志と二科会を創立する。1931年(昭和6)から翌年にかけて再渡仏。1935年に帝国美術院会員となり、二科会を退会し、翌年同志と一水会を創立。1955年(昭和30)文化功労者に選ばれ、1961年日展顧問となる。一貫してさわやかな印象派の作風を示した。代表作は『窓際』『読書』『靴の女』『端午(たんご)』。
[小倉忠夫]
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。…
…これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885‐1959),柳敬助(1881‐1923),津田青楓(1880‐1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883‐1950),山下新太郎(1881‐1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880‐1951),高村光太郎らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。…
※「山下新太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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