日本歴史地名大系 「山崎城跡」の解説
山崎城跡
やまざきじようあと
建武五年(一三三八)六月二六日付の林真弘軍忠状(前田家文書)に「山城国山崎警固事、就五月廿九日御教書並御書下
、属
当御手
、林太郎兵衛尉真弘八王寺山馳参、鳥取尾城、自
五月廿九日
、迄
六月廿三日夜
、致
用害警固
候」とある。すなわち林真弘が赤松則祐の手に属して
応仁の乱と続く戦国争乱には、「山名弾テ、上下ヲ淀・鳥羽・八幡ヲ支テ被
居ケレバ」と「応仁記」がいうように、山城・摂津東部・河内北部を制圧する重要拠点として、山崎城の争奪が繰り返された。まず文明元年(一四六九)一二月、乙訓郡の細川方国人野田泰忠は、西軍が山崎を占拠するとの情報に先手を打って山名是豊の被官とともに山崎に着陣、南北朝時代と同じ鳥取尾山に城を構えて在陣し、翌年正月一四日敵の猛勢と鳥取尾城で合戦を演じた(文明六年三月日「野田泰忠軍忠状」別本前田家文書)。
山崎城跡
やまさきじようあと
「三国名勝図会」は答院郡司であった大前氏に属した城とするが、確認できない。同書は続けて渋谷氏系
答院氏の重茂の三男重直が当地に分家したとし、「
答院記」は重直が応永年間(一三九四―一四二八)当城を築いたとする。重茂の父公重(重成)の弟重久は
答院町)に、重基の兄の子諸重は
答院町)に各々分家しており、これら四氏が
答院氏の主要な分家で、いずれも応永頃に
答院領内の要地に山城を築いた。この動向からみて当城は重直が応永年間に本格的に築いたと思われる。
山崎城跡
やまさきじようあと
山崎城跡
やまざきじようあと
山崎城跡
やまざきじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報