日本歴史地名大系 「山形城跡」の解説
山形城跡
やまがたじようあと
山形市西部、
当地に初めて城を築いたのは、延文元年(一三五六)出羽国から南朝勢力を駆逐するため入部した斯波兼頼と伝える。兼頼は足利一門の斯波氏の一流である奥州探題斯波家兼の次男で、当地は最上郡山形郷とよばれており、兼頼は以後最上氏を号したという(「最上家譜」東京大学史料編纂所蔵など)。兼頼の嫡流は代々当地に居を構え、庶子を周辺に分封して最上郡・村山郡に勢力を拡大していった。しかし一族のうちには徐々に宗家の支配から離脱をはかる者も現れ、内紛が絶えなかった。最上四十八館とよばれる領内の城館は、この頃宗家の防衛のため配置あるいは補強されたと考えられる。当時馬見ヶ崎川は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報