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山田長政 やまだながまさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山田長政
やまだながまさ

[生]?. 駿河
[没]寛永7 (1630). シャム,リゴール
江戸時代初期,シャム(タイ)の日本町を背景に活躍した駿河の人。通称,仁左衛門。沼津藩の駕籠かきをしていたが,慶長17(1612)年頃貿易船に便乗してシャムに渡り,近隣諸国と戦火を交えていた国王を援助し,日本人を率いて活躍。国王ソンタムの信任を得,都アユタヤの日本町の頭領となり,寛永5(1628)年シャムで最高の官位である握雅司臘毘目 Oya Senaphimok(オヤ・セナピモク)となった。同 5年国王が没すると王位継承の争いに巻き込まれ,南方のリゴールの太守となり,隣国パタニの侵入軍と戦ったが負傷。シャム人がその傷口に塗った毒薬で殺された。40歳前後といわれる。父長政の跡を継いだ遺子オコン・セナピモクもリゴール人の反抗にあい,日本人を率いリゴールの町を焼き払ってカンボジアに入ったが,当地で戦死した。長政の外交上の事績は日本とシャムの親善に尽くしたことで,通交を求めるソンタム国王の国使に副書を託したり,幕府の重臣に手紙,贈り物などをことづけた。また,シャム産物の貿易活動も行なった。しかし,今日タイ人の間では内政に干渉した外国人としてあまり評判はよくない。静岡浅間神社に山田長政奉納の戦艦図絵馬(写し)がある。

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デジタル大辞泉の解説

やまだ‐ながまさ【山田長政】

[?~1630]江戸初期、シャム日本人町で活躍した人物。駿河の人。通称、仁左衛門。慶長16年(1611)ごろシャムに渡り、首都アユタヤの日本人町の長となって外交・貿易に従事。また、内戦を治めてシャム国王の信任を得たが、王の死後毒殺された。

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百科事典マイペディアの解説

山田長政【やまだながまさ】

駿河の人。通称仁左衛門。1612年ごろシャムに渡り,日本人町(南洋日本人町)を中心に活躍。アユタヤ朝ソンタム王の信任を得て最高の官爵オヤ・セナピモクに登る。王の死(1628年)ののち王子派と王弟派による王位継承の紛争が起こると王子を擁立,日本人隊およびシャム兵2万を率いて反乱を鎮定。
→関連項目アユタヤタイナコーンシータマラート

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山田長政 やまだ-ながまさ

1590?-1630 江戸時代前期の貿易商,武将。
天正(てんしょう)18年?生まれ。慶長17年(1612)ごろ朱印船でシャム(タイ)にわたり,アユタヤ郊外の日本人町の長となる。対日交易につくし,日本人部隊の長として国王の信任をえる。国王死後の後継者争いをしずめて最高の官位にのぼり,リゴール王となるが,寛永7年戦闘中にうけた傷口に毒をぬられて死亡。41歳?駿河(するが)(静岡県)出身。通称は仁左衛門。

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朝日日本歴史人物事典の解説

山田長政

没年:寛永7(1630)
生年:生年不詳
江戸前期にシャム(タイ)の日本人町を中心に活躍した人物。通称仁左衛門。駿河国(静岡県)に生まれ,沼津城主の六尺(駕籠かき)を勤めたのち,慶長17(1612)年ごろ,朱印船でシャムに渡る。力量,才覚にすぐれ,アユタヤ(Aythia)郊外の日本人町の頭領となり,日本人義勇軍の長としても内戦・外征に功があった。国王ソンタムの信任を得,最高の官位オーヤ・セーナピモクを授けられたが,国王の死(1628)後,王位継承の内乱に関与し,王位を狙うオーヤ・カラホムによって六昆長官に左遷された。六昆でパタニ軍と戦って脚に負傷し,傷口に毒の膏薬を張られておそらく40歳で死亡。この毒殺は,長政の軍事力を障害と感じたカラホムの密命によるものとオランダ史料は記す。長政の死後,アユタヤの日本人町も焼き打ちされ,日本人勢力は一時的に衰退した。長政が生前日本とシャムの親善・外交に尽力し,貿易家としても活躍したことは『異国日記』「オランダ商館文書」のような信憑性の高い史料から察せられるが,長政の没後かなりの年数を経て生まれ,明治から昭和と受け継がれた山田長政伝説は,業績や地位を誇張・潤色し,彼を立身出世の英雄・悲劇の忠臣・南進の先駆者に仕立て上げた。これに対し,1636~42年のオランダ東インド会社アユタヤ商館長エレミアス・ファン・フリートの『暹羅革命史話』は,シャムにおける山田長政の事跡を冷淡なほど冷静に叙述しており,長政の実像に迫るうえで価値が高い。またタイには,日本の慣習に固執した内政干渉者との見方もあるようだ。今日求められるのは,独善的な山田長政像(=虚像)から脱却して,様々な視点で等身大の山田長政を見定めることであろう。<参考文献>村上直次郎『六昆王山田長政』,岩生成一『南洋日本町の研究』

(鳥井裕美子)

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デジタル大辞泉プラスの解説

山田長政

山岡荘八の歴史小説。1956年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説

やまだながまさ【山田長政】

?‐1630(寛永7)
シャム(今のタイ)の日本町を中心に活躍した駿河の人。沼津の領主の駕籠舁(かごかき)をしていたが,1612年(慶長17)ころシャムに渡った。当時アユタヤには1000人以上の日本人が居住し,日本町を形成していたが,彼は港務長から町の長となった。国王ソンタムSongthamの信任を得,最高の官位オヤ・セナピモクを授けられた。1621年(元和7)シャム国王が日本に使節を派遣し,通交を求めた際には,幕府の重臣に手紙・贈物をことづけて,両国の親善に尽力した。

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大辞林 第三版の解説

やまだながまさ【山田長政】

?~1630) 江戸初期の人。駿河の生まれ。一七世紀初め、シャムに渡り首都アユタヤの日本人町の頭領となり、内戦を治め国王の信を得て重臣となった。王の没後、リゴール太守に左遷されて毒殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山田長政
やまだながまさ
(?―1630)

近世初頭のシャム在住日本人の指導者。駿河(するが)国(静岡県)に生まれる。通称仁左衛門(にざえもん)。1611年(慶長16)ごろ朱印船に乗ってシャム(タイ国)に渡る。当時、国都アユタヤ郊外には日本町があり、多数の日本人が居住(1500~1600人)。彼らには一人の有力者(首長)の統率下にシャムの兵士として軍務に服する者、金融業・貿易業に従事する者などがあった。
 長政が渡来したころ、城井久右衛門(きゅうえもん)が日本人の首長として日本町を統率し、シャムの政府に重きをなしていた。やがて長政もその才幹を認められ、久右衛門の後を継いで首長となった。1621年(元和7)同国の官爵、坤(コン)・采耶惇(サヤヤスン)を授けられ、同国使節の日本渡航にあたって部下を差し遣わし、老中に書を送り、使節のため斡旋(あっせん)を依頼した。その後もシャム国使の来朝には書簡や進物(しんもつ)を幕閣らに贈り、両国の親善に努め、かたわら商船を派遣して貿易を行い、シャムの外交・貿易に活躍した。26年(寛永3)には浮(プラヤ)・司臘毘目(セナピモク)に累進したが、長政は日本人を率いて数々の内戦・外征に功をたて、国王ソンタムの信任を得た。そして同国最高の官爵オヤ・セナピモクOya Senaphimokを賜り、シャム王室に重きをなした。28年11月、ソンタム王の死後に起こった王位継承の内乱に、彼は日本人8000、シャム軍2万を率いて反乱を鎮圧し、王子を即位させたが、王族の一人で王位をねらうオヤ・カラホムは長政を遠ざけるため辺境リゴール(六崑)太守に任じた。
 1629年、長政は日本人・シャム人よりなる配下の兵数千を率いて任地に赴いたが、パタニの侵入軍と対戦して負傷した。彼の政敵に通ずる侍臣が傷口に塗った毒薬のため、30年夏、死亡した。長政の遺子はカンボジアに走り、同国の軍に合流してシャム軍と戦ったが、対戦中に戦死した。長政の没落によりアユタヤの日本町も焼討ちされ、一時、日本人の勢力は衰退した。[加藤榮一]
『村上直次郎著『六崑王山田長政』(1942・朝日新聞社) ▽岩生成一著『南洋日本町の研究』(1966・岩波書店)』

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世界大百科事典内の山田長政の言及

【タイ】より

…【末廣 昭】
【日本との関係】
 日・タイ間の交渉は朱印船貿易で活発となる。17世紀のアユタヤには日本人町(南洋日本人町)ができ,山田長政が活躍した。しかし江戸幕府の鎖国政策で往来は途絶え,日・タイ友好通商条約が締結されたのは1898年(明治31)であった。…

【天竺徳兵衛】より

…1707年(宝永4)徳兵衛は両度の渡海と東南アジアの寄港地の見聞を長崎奉行所に提出したが,これが世上に流布して《天竺徳兵衛物語》《渡天物語》などと称された。内容には地理的な誤りなどもあるが,山田長政など南方移住日本人の記述や朱印船貿易の記事は貴重である。彼の見聞記は,のち4世鶴屋南北の《天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)》など歌舞伎,浄瑠璃に脚色された。…

【ナコーンシータマラート】より

…アユタヤ朝期(1350‐1767)に入ってからは,マレー半島経営の重要な拠点となった。山田長政は1630年アユタヤ宮廷によってこの地の国主に任じられ,後に毒殺されたといわれている。【田辺 繁治】。…

【南洋日本人町】より

…また日本人町を形成しなかった各地(たとえばジャカルタ,モルッカ諸島のテルナテ,(現ミャンマー)のアラカン)でも日本人統治の便宜上,頭領が選ばれていた。各地の日本人頭領の中には史料に名の残っている者が多いが,最も有名なのはアユタヤ日本人町の頭領,山田長政である。彼は部下の日本人を指揮してタイの政界を左右するほどの勢力をもち,南方リゴール州の長官に任命されたが,ついに政敵により1630年に毒殺された。…

【パタニ王国】より

…この間政治的にはアユタヤに服属していたらしいが,1584年から1624年までは2代にわたって女王が支配し,アユタヤとの関係が弱まった。アユタヤはたびたびパタニを征服しようとし,1629年には山田長政の率いる日本人部隊が派遣されたこともあったが,マレー人の国家であった南方のジョホール王国の影響が強く,アユタヤの試みは成功しなかった。のち1785年にタイのラタナコーシン朝の支配下に入るまで,王国はマレー系の支配者のもとにあった。…

【リゴール】より

…リゴールは日本の史料では〈六昆〉と記されており,17世紀末には〈六昆〉からの貿易船がしばしば長崎に来航したことが知られている。1630年アユタヤ王の家臣山田長政は,リゴール国王に任じられ,アユタヤ在住の日本人とともに赴任したが,のち謀略によって殺害されたという。【石井 米雄】。…

※「山田長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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