近世初頭のシャム在住日本人の指導者。駿河(するが)国(静岡県)に生まれる。通称仁左衛門(にざえもん)。1611年(慶長16)ごろ朱印船に乗ってシャム(タイ国)に渡る。当時、国都アユタヤ郊外には日本町があり、多数の日本人が居住(1500~1600人)。彼らには一人の有力者(首長)の統率下にシャムの兵士として軍務に服する者、金融業・貿易業に従事する者などがあった。
長政が渡来したころ、城井久右衛門(きゅうえもん)が日本人の首長として日本町を統率し、シャムの政府に重きをなしていた。やがて長政もその才幹を認められ、久右衛門の後を継いで首長となった。1621年(元和7)同国の官爵、坤(コン)・采耶惇(サヤヤスン)を授けられ、同国使節の日本渡航にあたって部下を差し遣わし、老中に書を送り、使節のため斡旋(あっせん)を依頼した。その後もシャム国使の来朝には書簡や進物(しんもつ)を幕閣らに贈り、両国の親善に努め、かたわら商船を派遣して貿易を行い、シャムの外交・貿易に活躍した。26年(寛永3)には浮哪(プラヤ)・司臘毘目(セナピモク)に累進したが、長政は日本人を率いて数々の内戦・外征に功をたて、国王ソンタムの信任を得た。そして同国最高の官爵オヤ・セナピモクOya Senaphimokを賜り、シャム王室に重きをなした。28年11月、ソンタム王の死後に起こった王位継承の内乱に、彼は日本人8000、シャム軍2万を率いて反乱を鎮圧し、王子を即位させたが、王族の一人で王位をねらうオヤ・カラホムは長政を遠ざけるため辺境リゴール(六崑)太守に任じた。
1629年、長政は日本人・シャム人よりなる配下の兵数千を率いて任地に赴いたが、パタニの侵入軍と対戦して負傷した。彼の政敵に通ずる侍臣が傷口に塗った毒薬のため、30年夏、死亡した。長政の遺子はカンボジアに走り、同国の軍に合流してシャム軍と戦ったが、対戦中に戦死した。長政の没落によりアユタヤの日本町も焼討ちされ、一時、日本人の勢力は衰退した。
[加藤榮一]
『村上直次郎著『六崑王山田長政』(1942・朝日新聞社)』▽『岩生成一著『南洋日本町の研究』(1966・岩波書店)』
(鳥井裕美子)
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シャム(今のタイ)の日本町を中心に活躍した駿河の人。沼津の領主の駕籠舁(かごかき)をしていたが,1612年(慶長17)ころシャムに渡った。当時アユタヤには1000人以上の日本人が居住し,日本町を形成していたが,彼は港務長から町の長となった。国王ソンタムSongthamの信任を得,最高の官位オヤ・セナピモクを授けられた。1621年(元和7)シャム国王が日本に使節を派遣し,通交を求めた際には,幕府の重臣に手紙・贈物をことづけて,両国の親善に尽力した。また日本,マラッカなどとの貿易にも従事した。28年ソンタム王が死去すると,王位の継承をめぐって王弟派と王子派が争ったが,長政は王子派として反乱を鎮圧し,王子を即位させた。しかし,王子派の実力者で王族の一人オヤ・カラホムはみずから王位をうかがい,長政を南方のリゴール(六昆)の総督に任命して遠ざけた。ここで隣国パタニ王国からの侵入軍と戦闘中,足に負傷し,オヤ・カラホムの密命を受けたシャム人に毒薬を塗られ,死去した。
執筆者:永積 洋子
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?~1630
江戸初期,シャムの日本町の頭として活躍した人物。駿河国生れ。通称仁左衛門。1612年(慶長17)頃朱印船に便乗してシャムに渡り,20年(元和6)アユタヤ郊外の日本町の頭となる。日本人を率いて国王ソンタムに仕えて功をたて,最高の官位オヤ・セナピモクを賜った。シャムの外交貿易にも活躍し,21年幕府に書簡を送りシャム使節の来朝を斡旋,またオランダ東インド総督クーンと書簡をとりかわした。28年(寛永5)国王の死後,王位継承の内乱を収拾し名声を高めたが,王位をねらう王族のオヤ・カラホムに敬遠されてリゴール大守に封じられ,30年パタニとの対戦中に負傷し毒殺された。
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?~1630
1612年頃タイに渡航し,日本町の頭領となった人物。駿河(するが)の出身。アユタヤ朝に仕え,国王の親任を得て最高官爵にまで進んだが,王位継承の騒乱に際してリゴール王に封ぜられ,任地で謀殺された。
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…【末廣 昭】
【日本との関係】
日・タイ間の交渉は朱印船貿易で活発となる。17世紀のアユタヤには日本人町(南洋日本人町)ができ,山田長政が活躍した。しかし江戸幕府の鎖国政策で往来は途絶え,日・タイ友好通商条約が締結されたのは1898年(明治31)であった。…
…1707年(宝永4)徳兵衛は両度の渡海と東南アジアの寄港地の見聞を長崎奉行所に提出したが,これが世上に流布して《天竺徳兵衛物語》《渡天物語》などと称された。内容には地理的な誤りなどもあるが,山田長政など南方移住日本人の記述や朱印船貿易の記事は貴重である。彼の見聞記は,のち4世鶴屋南北の《天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)》など歌舞伎,浄瑠璃に脚色された。…
…アユタヤ朝期(1350‐1767)に入ってからは,マレー半島経営の重要な拠点となった。山田長政は1630年アユタヤ宮廷によってこの地の国主に任じられ,後に毒殺されたといわれている。【田辺 繁治】。…
…また日本人町を形成しなかった各地(たとえばジャカルタ,モルッカ諸島のテルナテ,(現ミャンマー)のアラカン)でも日本人統治の便宜上,頭領が選ばれていた。各地の日本人頭領の中には史料に名の残っている者が多いが,最も有名なのはアユタヤ日本人町の頭領,山田長政である。彼は部下の日本人を指揮してタイの政界を左右するほどの勢力をもち,南方リゴール州の長官に任命されたが,ついに政敵により1630年に毒殺された。…
…この間政治的にはアユタヤに服属していたらしいが,1584年から1624年までは2代にわたって女王が支配し,アユタヤとの関係が弱まった。アユタヤはたびたびパタニを征服しようとし,1629年には山田長政の率いる日本人部隊が派遣されたこともあったが,マレー人の国家であった南方のジョホール王国の影響が強く,アユタヤの試みは成功しなかった。のち1785年にタイのラタナコーシン朝の支配下に入るまで,王国はマレー系の支配者のもとにあった。…
…リゴールは日本の史料では〈六昆〉と記されており,17世紀末には〈六昆〉からの貿易船がしばしば長崎に来航したことが知られている。1630年アユタヤ王の家臣山田長政は,リゴール国王に任じられ,アユタヤ在住の日本人とともに赴任したが,のち謀略によって殺害されたという。【石井 米雄】。…
※「山田長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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