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山県有朋内閣 やまがたありともないかく

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百科事典マイペディアの解説

山県有朋内閣【やまがたありともないかく】

(1)第1次。1889年12月24日―1891年5月6日。黒田清隆内閣のあとを受けて成立した藩閥内閣。府県制・郡制の制定,教育勅語発布など天皇制の確立強化に努力。
→関連項目井深梶之助

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山県有朋内閣
やまがたありともないかく

明治時代、山県有朋を首班として組織された第一次、第二次に至る内閣。[由井正臣]

第一次

(1889.12.24~1891.5.6 明治22~24)
黒田清隆(くろだきよたか)内閣が大隈(おおくま)条約改正案の失敗で倒れたあと成立した藩閥内閣。国会開設を翌年に控えて超然主義を掲げた。しかし1890年7月の第1回総選挙では、反政府派の民党(旧自由党系、改進党)が多数を占める勢いであった。内閣は議会乗り切りのためその直前の5月に改造を行い、陸奥宗光(むつむねみつ)を農商務相として入閣させ、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)とともに民党対策にあたらせた。他方、同年10月には教育勅語を発布して、天皇制の精神的基礎の確立を目ざした。同年11月開会の第1議会では国是として主権線と利益線(朝鮮)の擁護を訴え、軍備拡張を基本とする予算案を提出した。これに対し民力休養・政費節減を主張する民党は全予算の1割に及ぶ削減案で対抗した。そのため内閣は一方で衆議院解散をほのめかし、他方で後藤、陸奥を通じて自由党土佐派を切り崩し、からくも第1議会を乗り切った。第1議会閉会直後に総辞職し、松方正義(まつかたまさよし)内閣に引き継いだ。[由井正臣]

第二次

(1898.11.8~1900.10.19 明治31~33)
1898年の憲政党内閣(第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣)の出現は、藩閥勢力に強い危機感を与えた。そのため山県を中心とする官僚勢力は大隈内閣を攻撃し、憲政党内の自由・改進両派の対立もあって同内閣がわずか4か月余で瓦解(がかい)すると、山県は自ら後任首班を引き受けて内閣を組織した。内閣の最大の課題は日清(にっしん)戦後の大軍備拡張を柱とする戦後経営の財源確保のため地租増徴を実現することにあった。そのため内閣は星亨(ほしとおる)を通じて憲政党(旧自由党系)と提携し、第13議会で内外の反対を押し切ってこれを実現した。このあと文官任用令を改正して政党勢力の官僚機構への浸透を防止し、さらに翌年には枢密院諮詢(しじゅん)事項の拡大、軍部大臣現役武官制の確立など総じて官僚機構の強化に努めた。ついで第14議会では衆議院選挙法を改正して納税資格を10円に引き下げ、都市を独立選挙区としてブルジョアジーの議会進出を容易ならしめる一方、急速に勃興(ぼっこう)しつつあった労働者、農民の運動を抑えるため治安警察法を制定した。対外的には、1900年の義和団事件(北清事変)に、八か国連合軍に加わって1万2000名の大軍を派遣して、中国の民族運動を鎮圧、列強にその軍事力を評価され「極東の憲兵」として帝国主義国への仲間入りを果たした。第14議会終了後、憲政党と絶縁、同年立憲政友会を組織した伊藤博文(いとうひろぶみ)にその後任を託して総辞職した。[由井正臣]
『大津淳一郎著『大日本憲政史 第3、5巻』(1927・宝文館/復刻版・1969・原書房) ▽徳富猪一郎著『公爵山県有朋伝』全3巻(1933・山県有朋公記念事業会/復刻版・1969・原書房) ▽岡義武著『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書)』

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