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後藤艮山 ごとうごんざん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後藤艮山
ごとうごんざん

[生]万治2(1659).7.23. 江戸
[没]享保18(1733).9.18.
江戸時代中期,京都で活躍した古方派の医家。弟子には山脇東洋香川修徳らがいる。名古屋玄医に師事しようとしたが,入門を断られ,独学で医学を学んだ。貧苦のなかで育った彼は,救民のために尽し薬を施したので,患者は跡を絶たず,門人は 200人をこえた。

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デジタル大辞泉の解説

ごとう‐こんざん【後藤艮山】

[1659~1733]江戸中期の医師。江戸の人。名は達。別号は養庵。父の郷里の京都に帰って開業。多くの門人を育て、古医方の祖とされる。当時の医師の常識を破り、僧形をせずに平服をつけた。

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百科事典マイペディアの解説

後藤艮山【ごとうこんざん】

江戸時代の医学者。名は達,通称佐一郎,江戸に生まれ,京都で開業した。(きゅう),熊胆(ゆうたん),温泉の効用を説き,按腹(あんぷく)を採用し,診療に当たって経験を重んじ,古医方の確立者となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後藤艮山 ごとう-こんざん

1659-1733 江戸時代前期-中期の医師。
万治(まんじ)2年7月23日生まれ。林鳳岡(ほうこう)に儒学を,牧村卜寿(ぼくじゅ)に医学をまなび,京都で開業。古医方をきわめ,病因論の一気留滞説で知られる。香川修庵,山脇東洋らの医師をそだてた。享保(きょうほう)18年9月18日死去。75歳。江戸出身。名は達。字(あざな)は有成。通称は左一郎。別号に養庵。

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朝日日本歴史人物事典の解説

後藤艮山

没年:享保18.9.18(1733.10.25)
生年:万治2.7.23(1659.9.9)
江戸中期の医者。名は達,字は有成,通称左一郎,艮山は号,別号養庵。江戸常盤橋辺(東京都千代田区)生まれ。父は光長,母は梅原氏の亀。若くして儒と医を学び,貞享2(1685)年京都に移り,相国寺西の室町に居を定め,独学で医者としての研鑽を積んだ。当時の名医名古屋玄医に入門を希望したが謝金の少ないのを理由に断られたとも伝えるが,不詳。その後,狩野街を経て正親町に移り終生の居とした。大いに医名を挙げ,全国から集まった門人は200名を超えた。特に香川修徳,山脇東洋,市瀬穆,山村重孝,赤沢貞幹らが有名。百病は一気の留滞から生じ,順気をもって治療の綱要とすべきとするいわゆる一気留滞説を提唱。古方派の祖とされた人であるが,必ずしも『傷寒論』のみを金科玉条とせず,唐代の医方も重視し,さらに灸,熊胆,温泉などの効用も説いた。自ら著述はなさなかったが,門人の録した『師説筆記』にその識見を知ることができる。<参考文献>大塚恭男「後藤艮山」(『近世漢方医学書集成』13巻)

(小曾戸洋)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ごとうこんざん【後藤艮山】

1659‐1733(万治2‐享保18)
江戸中期の古医方派医。江戸出身。名は達,字は有成,通称佐一郎,別号を養庵といった。儒を林大学頭,医を牧村卜寿に学んだ。災厄に遭って生家が没落後,京都に移住し開業した。名古屋玄医に入門を断られて発奮,独学で古医方を修め一家をなした。医の僧体をやめ俗体で通し,一気留滞論を唱え,有用な民間経験療法をも積極的に採用,もぐさ灸,温泉治療,熊胆を推奨するなど医風の革新をはかり,香川修庵,山脇東洋ら優れた門生を育成した。

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大辞林 第三版の解説

ごとうこんざん【後藤艮山】

1659~1733) 江戸中期の医師。江戸の人。名は達。古医方の泰斗。百病一気留滞説を立て、灸きゆう・温泉・熊の胆の療法を勧めた。著「病因考」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後藤艮山
ごとうこんざん
(1659―1733)

医師。江戸中期におこった古方(こほう)派の先駆者。江戸の生まれ。名は達(たつ)、字(あざな)は有成(ありなり)、号は養庵(ようあん)、俗称は左一郎。少年時より学を好み、林鳳岡(はやしほうこう)に経学を、さらに牧村卜寿(ぼくじゅ)に医を学んだ。27歳で京都に移り、相国寺西の室町に居を定め、名を養達と改め医門を開く。その後、狩野街に移って養庵と号し、さらに禁門前の正親町(おおぎまち)に移り、ここを終生の居とした。享保(きょうほう)18年、近江(おうみ)国(滋賀県)伊吹山への旅行中に膈噎(かくえつ)(食道の病気で、胃や食道の狭窄(きょうさく)症や癌(がん)の類と考えられる)にかかり没した。墓碑は京都市北区千本通馬口上ル蓮台寺(れんだいじ)普門院墓地にある。
 艮山の門人は200人を超え、なかでも香川修庵(修徳)、山脇東洋(やまわきとうよう)が知られる。艮山は百病は一気の留滞に生ずるという「一気留滞説」を提唱し、日本人の手になる病因説として日本医学史上に不滅の光を放っている。古方派の祖とされるが、その医療はかならずしも『傷寒論(しょうかんろん)』のみにはとらわれず、灸(きゅう)や温泉などを賞用した。従来の医師の多くが僧形であったのに対し、艮山は髪を束ね、平服を着用した。以後これが艮山流となり、多くの医家が追従した。艮山の著述はほとんどなく、『師説筆記』『東洋洛語(らくご)』なども門人の編著と考えられる。[矢数道明]

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世界大百科事典内の後藤艮山の言及

【医者】より

…病院の設立や縫合・焼灼法といった新手の療法をもたらしたのである。(3)蘭医学の興隆 道三の実証主義は,江戸中期にいたり,後藤艮山とその学派(古方派)によって発展的に修正された。医療における親試実験が極度に追求された結果,吉益東洞が〈万病一毒説〉をとなえて臨床治療医学を具体化し,山脇東洋は1754年(宝暦4)蘭医学の解剖書をもとに人体解剖を行って五臓六腑説を訂正した。…

【古医方】より

…それは儒学における革新の古学と思想的立場を同じくし,古学に先行して発足したが,その発展には古学思想の影響が大きく,その背景には,当時の商業経済社会の進展に応じ,社会に根ざした経験‐客観‐実証主義の社会思潮がある。古医方は名古屋玄医の唱道に始まり,後藤艮山(こんざん)を事実上の祖とし,その門下の香川修徳によって自覚的に唱えられ,山脇東洋,永富独嘯庵ら傑出した医家がこの派から出現。また吉益東洞は異色の古医方家として一世を風靡(ふうび)した。…

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