医師。江戸中期におこった古方(こほう)派の先駆者。江戸の生まれ。名は達(たつ)、字(あざな)は有成(ありなり)、号は養庵(ようあん)、俗称は左一郎。少年時より学を好み、林鳳岡(はやしほうこう)に経学を、さらに牧村卜寿(ぼくじゅ)に医を学んだ。27歳で京都に移り、相国寺西の室町に居を定め、名を養達と改め医門を開く。その後、狩野街に移って養庵と号し、さらに禁門前の正親町(おおぎまち)に移り、ここを終生の居とした。享保(きょうほう)18年、近江(おうみ)国(滋賀県)伊吹山への旅行中に膈噎(かくえつ)(食道の病気で、胃や食道の狭窄(きょうさく)症や癌(がん)の類と考えられる)にかかり没した。墓碑は京都市北区千本通馬口上ル蓮台寺(れんだいじ)普門院墓地にある。
艮山の門人は200人を超え、なかでも香川修庵(修徳)、山脇東洋(やまわきとうよう)が知られる。艮山は百病は一気の留滞に生ずるという「一気留滞説」を提唱し、日本人の手になる病因説として日本医学史上に不滅の光を放っている。古方派の祖とされるが、その医療はかならずしも『傷寒論(しょうかんろん)』のみにはとらわれず、灸(きゅう)や温泉などを賞用した。従来の医師の多くが僧形であったのに対し、艮山は髪を束ね、平服を着用した。以後これが艮山流となり、多くの医家が追従した。艮山の著述はほとんどなく、『師説筆記』『東洋洛語(らくご)』なども門人の編著と考えられる。
[矢数道明]
(小曾戸洋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸中期の古医方派医。江戸出身。名は達,字は有成,通称佐一郎,別号を養庵といった。儒を林大学頭,医を牧村卜寿に学んだ。災厄に遭って生家が没落後,京都に移住し開業した。名古屋玄医に入門を断られて発奮,独学で古医方を修め一家をなした。医の僧体をやめ俗体で通し,一気留滞論を唱え,有用な民間経験療法をも積極的に採用,もぐさ灸,温泉治療,熊胆を推奨するなど医風の革新をはかり,香川修庵,山脇東洋ら優れた門生を育成した。
執筆者:宗田 一
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…病院の設立や縫合・焼灼法といった新手の療法をもたらしたのである。(3)蘭医学の興隆 道三の実証主義は,江戸中期にいたり,後藤艮山とその学派(古方派)によって発展的に修正された。医療における親試実験が極度に追求された結果,吉益東洞が〈万病一毒説〉をとなえて臨床治療医学を具体化し,山脇東洋は1754年(宝暦4)蘭医学の解剖書をもとに人体解剖を行って五臓六腑説を訂正した。…
…それは儒学における革新の古学と思想的立場を同じくし,古学に先行して発足したが,その発展には古学思想の影響が大きく,その背景には,当時の商業経済社会の進展に応じ,社会に根ざした経験‐客観‐実証主義の社会思潮がある。古医方は名古屋玄医の唱道に始まり,後藤艮山(こんざん)を事実上の祖とし,その門下の香川修徳によって自覚的に唱えられ,山脇東洋,永富独嘯庵ら傑出した医家がこの派から出現。また吉益東洞は異色の古医方家として一世を風靡(ふうび)した。…
※「後藤艮山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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