岡本文弥(読み)オカモトブンヤ

デジタル大辞泉 「岡本文弥」の意味・読み・例文・類語

おかもと‐ぶんや〔をかもと‐〕【岡本文弥】

[1633~1694]江戸前期の古浄瑠璃太夫。大坂の人。大坂道頓堀の伊藤出羽掾座で活躍。文弥の泣き節といわれる文弥節の始祖。→文弥節

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「岡本文弥」の解説

岡本 文弥
オカモト ブンヤ


職業
新内節演奏家・作曲家

肩書
新内節岡本流家元

資格
重要無形文化財新内節記録保持者,台東区無形文化財〔平成3年〕

本名
井上 猛一

別名
前名=富士松 加賀路太夫,岡本 宮太夫

生年月日
明治28年 1月1日

出生地
東京市 下谷区谷中(東京都台東区)

学歴
京華中学〔大正2年〕卒 早稲田大学中退

経歴
母は鶴賀若吉、富士松加賀八を経て、3代目岡本宮染を名乗った新内の師匠。京華中学卒業後、早稲田大学に進むが退学。その後、中央新聞で校正係を務める傍ら、母に新内節を学ぶ。また文学青年でもあり、永井荷風や北原白秋に私淑して「秀才文壇」「文章世界」などに投稿した。大正2年富士松加賀路太夫を名乗る。5年「秀才文壇」を発行する文光堂に入り、その編集に従事。12年母が独立して岡本派を再興し、4代目家元となったのを機に岡本宮太夫、後に文弥と改めた。同年関東大震災により務めていた文光堂が倒産したため、新内に専念。昭和5年頃から盛んに自身の作詞・作曲による新作を発表するようになり、特に「西部戦線異状なし」「太陽のない街」「磔茂左衛門」などといった左翼的な内容の新内で評判となった。11年「滝の白糸」「唐人お吉」などを発表してからは、主に藤間勘妙らとのコンビで新内舞踊の道を切り開き、高い評価を受ける。戦時中は三越ホールなどの会場が使えなくなったため、移動演劇の舞台座に所属し、俳優として活動。戦後、新内語りとして復帰し、23年には藤根道雄を招いて新内演奏会にはじめて解説を導入し、好評を博した。以後、創作や芝居の出語り、寄席出演、地方巡業、放送出演など多忙を極め、32年芸術選奨文部大臣賞を受賞。39年日本民族芸能代表として訪中。46年大西信行が作詞したニッポン放送「円朝恋供養」で芸術祭優秀賞を受けた。80歳を過ぎても旺盛な活動を続け、58年人形劇団プークと組んで「弥次喜多東海道中噺」の出語り巡演を行う。平成4年には齢97歳にして韓国の従軍慰安婦問題を取り上げた新作「ぶんやありらん」を発表して各地で公演し、さらにこれが5年プークの手により人形劇化され、話題となった。7年100歳を迎え、日本芸能実演家団体協議会の芸能功労者に選ばれるが、8年101歳で死去した。他の作品に「今戸心中」「十三夜」「にごりえ」「耳なし芳一」「風物詩お雪(濹東綺譚)」「旅人かえらず」「なめくじと志ん生」などがある。一方、洒脱な文体の随筆家としても知られ、「遊里新内考」「芸人ふぜい帖」「芸流し人生流し」「文弥芸談」「ぶんやぞうし」など著書も多い。

受賞
芸術選奨文部大臣賞〔昭和32年〕 紫綬褒章〔昭和43年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和49年〕 芸術選奨奨励賞〔昭和36年〕,芸術祭賞優秀賞〔昭和46年〕,松尾芸能賞(優秀賞 第9回)〔昭和63年〕,伝統文化ポーラ大賞(十周年記念特別大賞)〔平成2年〕,山本安英の会記念基金(第1回)〔平成5年〕

没年月日
平成8年 10月6日 (1996年)

家族
妻=岡本 宮染(5代目),母=岡本 宮染(3代目)

伝記
一芸一談大落語〈上〉旅籠屋の宿帳長生きも芸のうち―岡本文弥百歳長生きも芸のうち―岡本文弥百歳新内的 桂 米朝 著平岡 正明 著榎本 いさお 著森 まゆみ 著森 まゆみ 著平岡 正明 著(発行元 筑摩書房法政大学出版局イズミヤ出版筑摩書房毎日新聞社批評社 ’07’05’01’98’93’90発行)

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20世紀日本人名事典 「岡本文弥」の解説

岡本 文弥
オカモト ブンヤ

大正〜平成期の新内節演奏家・作曲家 新内節岡本流家元。



生年
明治28(1895)年1月1日

没年
平成8(1996)年10月6日

出生地
東京・谷中

本名
井上 猛一

別名
前名=富士松 加賀路太夫,岡本 宮太夫

学歴〔年〕
京華中学〔大正2年〕卒,早稲田大学中退

主な受賞名〔年〕
芸術選奨文部大臣賞〔昭和32年〕,芸術選奨奨励賞〔昭和36年〕,紫綬褒章〔昭和43年〕,芸術祭賞優秀賞〔昭和46年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和49年〕,松尾芸能賞(優秀賞 第9回)〔昭和63年〕,伝統文化ポーラ大賞(十周年記念特別大賞)〔平成2年〕,山本安英の会記念基金(第1回)〔平成5年〕

経歴
母が新内師匠という新内一家に生まれ、大正2年富士松加賀路太夫を名乗る。同12年独立して岡本派を再興し4代目家元となり、宮太夫、後に文弥と改名。新内の創作と新内舞踊の道を開いた功績は高く評価されている。作品に「唐人お吉」「今戸心中」「十三夜」「にごりえ」「西部戦線異状なし」「耳なし芳一」「風物詩お雪(〓東綺譚)」、CD「岡本文弥新内ぶし特集」(6枚組)などがあり、「遊里新内考」「芸流し人生流し」「文弥芸談」など著書も多い。没後の平成10年深川江戸資料館で、けいこ本や私信のはがき、豆本などを集めた「ぶんや展」が開催された。

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百科事典マイペディア 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥【おかもとぶんや】

古浄瑠璃(こじょうるり)の文弥節の演奏家(太夫)。初世〔1633-1694〕は大坂道頓堀(どうとんぼり)の伊藤出羽掾(でわのじょう)座で語り出し,人気を集めた。文弥節の始祖とされる。4世〔1895−1996〕は東京都出身。本名井上猛一。早稲田大学中退。母の3世岡本宮染(みやそめ)に師事する。1923年に岡本派を再興し,岡本派4世家元として岡本文弥と改名。古典の他に《太陽のない街》《西部戦線異状なし》などの自作新内節を上演し,〈邦楽界の異端児〉といわれた。1956年度の芸術選奨受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥
おかもとぶんや

生没年不詳。延宝(えんぽう)~元禄(げんろく)(1673~1704)ごろの浄瑠璃太夫(じょうるりたゆう)。1679年(延宝7)刊の『難波雀(なにわすずめ)』の書中には、大坂の伊藤出羽掾座(でわのじょうざ)で活躍し、文弥節がもてはやされ一時は大いに流行したありさまが書かれている。『名人忌辰録(めいじんきしんろく)』に元禄7年(1694)没したと記されているが、芸歴とともに明らかでない。伊藤出羽掾を初世とする説がある。文弥節は元禄後期には義太夫(ぎだゆう)節に押されて衰絶し、いまでは義太夫、一中豊後(いっちゅうぶんご)系浄瑠璃などに、「文弥」という曲節を残すのみとなっている。曲風は哀婉(あいえん)な軟派風とみえて、泣き節とも称せられた。なお、新内節(しんないぶし)の4世家元岡本文弥(1895―1996)は、文弥節とは関係がない。また現在、佐渡の郷土芸能に文弥節の名が残っている。

[林喜代弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥[新内節]
おかもとぶんや[しんないぶし]

[生]1895.1.1. 東京
[没]1996.10.6. 東京
新内節の太夫・作曲家。本名,井上猛一。幼少より母 (鶴賀若吉,のち富士松加賀八) から新内節を学び,富士松加賀路太夫を名のるが,1923年岡本派を再興し,文弥と改名,4代目家元となる。古浄瑠璃の岡本文弥とは無関係。 1930年頃から新作を発表し『西部戦線異状なし』『太陽のない町』などを新内化し,「左翼新内」「プロレタリア新内」と呼ばれ弾圧されたこともあった反戦,反骨の新内語り。一方,古典の保存にも努め,重要無形文化財保持者となったほか,1957年芸術選奨文部大臣賞,1968年紫綬褒章,1971年芸術祭優秀賞,1974年勲四等旭日小綬章などを受けた。著書に『遊里新内考』『芸流し人生流し』『文弥芸談』などがある。

岡本文弥(1世)
おかもとぶんや[いっせい]

[生]寛永10(1633)
[没]元禄7(1694).1.1. 大坂
古浄瑠璃の演奏者。文弥節の創始者。大坂の伊藤出羽掾の門人で,延宝7 (1679) 年出羽座に出座,太夫として活躍した。「泣き節」と呼ばれる哀調を特色とし,他流の浄瑠璃にも大きな影響を与えた。

岡本文弥(2世)
おかもとぶんや[にせい]

古浄瑠璃の演奏者。元禄 (1688~1704) 頃在世。前名今文弥。1世岡本文弥が創始した文弥節角太夫節を加味した。

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朝日日本歴史人物事典 「岡本文弥」の解説

岡本文弥(初代)

没年:元禄7.1.11(1694.2.4)
生年:寛永10(1633)
延宝(1673~81)ごろから人形浄瑠璃の大坂出羽座で名を上げた古浄瑠璃の太夫。「文弥の泣き節」といわれ,大坂では最も人気があり,素人も含めて多くの門弟を擁した。在名正本としては「四十八願記あみだの本地」(1684)を知るのみであるが,天和・貞享(1681~88)ごろからは,年老いた伊藤出羽掾にかわって,出羽座をとりしきった。彼の正本に擬すべきものは,したがって少なくないはずである。門弟に「泣き節」を発展させて「愁い節」を創始した山本角太夫(土佐掾)がいる。<参考文献>信多純一「山本角太夫について」(古典文庫『古浄瑠璃集/角太夫正本1』解題),阪口弘之「出羽座をめぐる太夫たち」(『人文研究』26巻3分冊)

(阪口弘之)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡本文弥」の解説

岡本文弥(2) おかもと-ぶんや

1895-1996 大正-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治28年1月1日生まれ。新内節の家にそだち,母から手ほどきをうける。大正2年富士松加賀路太夫を名のり,12年独立して岡本派を再興し4代目家元となる。美声の語り手で,新様式による作詞・作曲と新内舞踊の開拓につくした。昭和32年新内節で国選択の記録無形文化財保持者。平成8年10月6日死去。101歳。東京出身。早大中退。本名は井上猛一。前名は岡本宮太夫。著作に「新内浄瑠璃正本考」など。

岡本文弥(1) おかもと-ぶんや

1633-1694 江戸時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛永10年生まれ。文弥節の創始者。大坂の伊藤出羽掾(でわのじょう)座で活躍し,文弥の泣き節といわれて人気をえた。門弟に山本土佐掾らがいる。元禄(げんろく)7年1月11日死去。62歳。別号に文寿軒。

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改訂新版 世界大百科事典 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥 (おかもとぶんや)

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367日誕生日大事典 「岡本文弥」の解説

岡本 文弥 (おかもと ぶんや)

生年月日:1895年1月1日
大正時代;昭和時代の新内節演奏家・作曲家。新内節岡本流家元
1996年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡本文弥の言及

【浄瑠璃】より

… 大坂では京,江戸に比して寛永ころは低調であったが,1648年(慶安1)に伊藤出羽掾は二郎兵衛ほかとともに《親鸞記》を上演して本願寺より禁止されている(《粟津家文書》)から,このときすでに出羽掾を受領しており(《町人受領記》は1658年),操り座をもっていた。この座で活躍した太夫に大坂二郎兵衛,岡本文弥(文弥節)がある。文弥の語り物に《四十八願記》《善光寺》などがあり,泣き節と呼ばれた。…

【文弥節】より

…浄瑠璃の曲節および流派名。初世岡本文弥(1633‐94)が語り出した古浄瑠璃の曲節で,延宝~元禄期(1673‐1704)に京坂で流行した。初世岡本文弥は大坂道頓堀の伊藤出羽掾座で語り出して人気を集め,2世(生没年不詳)がそのあとを受け継いだらしいが,盛期は長くなかった。…

※「岡本文弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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