浄瑠璃の曲節および流派名。初世岡本文弥(1633-94)が語り出した古浄瑠璃の曲節で,延宝~元禄期(1673-1704)に京坂で流行した。初世岡本文弥は大坂道頓堀の伊藤出羽掾座で語り出して人気を集め,2世(生没年不詳)がそのあとを受け継いだらしいが,盛期は長くなかった。文弥節は高音の旋律型を特色としたらしく,井上播磨掾も用いた〈なきぶし〉を発展させて哀愁味を強くあらわし,俗に〈文弥の泣き節〉といわれる。それをさらに応用したのが初世の高弟岡本阿波太夫で〈愁ひ節〉として知られた。文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。文弥節は義太夫の流行もあって,宝永(1704-11)ころから急に衰退した。なお,文弥節そのものは,現在,新潟県佐渡の文弥人形芝居など地方芸能に残存しているが,本来の曲風との関係などは未詳である。
執筆者:竹内 道敬
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岡本文弥が創始した浄瑠璃(じょうるり)の一派。岡本文弥(?―1694)は山本角太夫(かくたゆう)の門下と伝えられる。大坂道頓堀の伊藤出羽掾(でわのじょう)座で、おもに角太夫や井上播磨掾(はりまのじょう)の語物(かたりもの)を演奏、1670年代(延宝年間)以降その曲風が流行した。哀調のある曲節に特徴があったようで、「文弥の泣き節」とよばれた。義太夫節にも多数の旋律型が取り入れられたが、現行の曲節から文弥節の特色を抽出することはむずかしい。1702年(元禄15)ごろに2世文弥が現れたものの、義太夫節に押されて、ほどなく廃れた。近年まで石川県や鹿児島県でも文弥人形の音楽として演奏されたが、現在は佐渡の郷土芸能として伝承されている。
[倉田喜弘]
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