岩上村(読み)いわがみむら

日本歴史地名大系 「岩上村」の解説

岩上村
いわがみむら

[現在地名]大分市端登はたのぼり 岩上・河原かわら花香はなが佐渡川さどがわ舟戸ふなど

河原内かわらうち川が大野川に合流する地点の南に位置し、北は竹中たけなか村。江戸時代を通じて肥後熊本藩領。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高一一八石余。正保郷帳によれば田高四九石余・畑高六九石余、戸次へつぎ庄に所属。初め冬田手永、延宝三年(一六七五)から高田手永山奥在九ヵ村の一。「高田風土記」によると枝村に河原・花香・岩屋金いわやがね鳥巣とりすの四村があり、一人の庄屋が支配した。「肥後国誌」は河原村を除く三村を伊与床いよとこ村の内とする。文化一〇年(一八一三)の本村の高七一石余、反別は田方三町五反余・畑方六町四反余、免は四ツ三分余。


岩上村
いわのうえむら

[現在地名]安佐北区高陽こうよう町〈岩上・じようおか翠光台すいこうだい浄水場じようすいじよう

ふたつじよう(四八三・二メートル)の北麓を流れる岩上川とその東側の小支谷の流域で、末光すえみつ村の西南に位置する。深川ふかわ郷から広島への往還が東の諸木もろき村から椎木峠しいのきだおを越えて当村に入り、西の夜山ようやま峠を経て矢口やぐち村に出る。「郡中国郡志」は「当村往古カロウト申岩御座候由、其脇ニ平岩ト申大岩御座候、其辺ヨリ上エニ在之村故、岩上村ト唱候者歟」と記している。地名は陶氏に提出した天文二一年(一五五二)二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)に「一、岩上・諸木・末光」とみえる。


岩上村
いわがみむら

[現在地名]小松市岩上町

かけはし川上流の郷谷ごうたに川と西俣にしまた川の合流点に位置し、集落は郷谷川左岸の山間部にある。北は波佐羅はさら村・塩原しおはら村。岩神とも記したが、幕末に火災で六〇戸を焼き、神の祟りとして村名を改めたと伝える(能美郡誌)中世軽海かるみ郷の河内かわちに属した。元亨四年(一三二四)九月一〇日の軽海郷河内新開田数注文(金沢文庫文書)に岩上分があげられているが、後欠のため百姓名主は大ひけ入道以下三人分しかみえない。


岩上村
いわねむら

[現在地名]氷見市伊勢大町いせおおまち二丁目

上伊勢かみいせ町からくぼ村への南北に走る街道沿いに生じた村。文政八年(一八二五)南条組、天保一〇年(一八三九)以降も南条組に属した。上伊勢町に移った浄土真宗本願寺派西光さいこう寺はもと当村にあったが、西光寺蔵の善意坐像図裏書に「淵窪岩上村」とあり、上伊勢町より窪村に近い所にあったことを思わせる。しかし、天明五年(一七八五)の折橋旧記(折橋家文書)に「氷見町外畑高内取持」とあり、氷見町の所有する土地であった。慶安三年(一六五〇)引網一作請書(引網旧記付録)によれば、当村の市左衛門が引網一作を朱符銀一八匁で請負っている。承応三年(一六五四)の引網根元由緒書(近世越中灘浦台網漁業史)によれば、窪村と当村の網の権利は、加賀藩二代藩主前田利長の守山もりやま(現高岡市)在城時代にさかのぼるとする。


岩上村
いわがみむら

[現在地名]砥用町遠野とおの 岩上

興正寺こうしようじ村の西隣にある小村で、南に下れば緑川が流れ、西に金木かなぎ村がある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一〇〇石七斗余、うち田方三五石九斗余・畠方六四石七斗余。砥用手永に属し、「国誌」に下岩上という小村がみえる。明治九年(一八七六)興正寺・北野きたの権正ごんのかみの三村と合併して遠野村となった。


岩上村
いわがみむら

[現在地名]柏崎市岩上・半田はんだ一丁目・希望が丘きぼうがおかたから

東は半田村、西は枇杷島びわじま村、北は比角ひすみ村、南は横山よこやま村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高三五四石余。


岩上村
いわがみむら

[現在地名]大野町矢田やだ 岩上

中角なかつの村の北西、平井ひらい川北東岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一五六石余・畑高三三三石余、大方おおがた郷に属し、茅山有、日損所と注記される。この高は矢田村分も含むとみられ、同村が独立して記される旧高旧領取調帳では高一七七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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