岩下村(読み)いわしたむら

日本歴史地名大系 「岩下村」の解説

岩下村
いわしたむら

[現在地名]韮崎市韮崎町岩下にらさきまちいわした

しお川を挟み、河原部かわらべ村の対岸東方にある。村域は同川左岸、かやヶ岳山麓台地の末端部から氾濫原を占め、川に沿って南北に細長く展開。北部に枝郷岩根いわね(「甲斐国志」では家数一八)があり、東は上野山うえのやま村。永禄四年(一五六一)の番帳に「岩下の禰き」とみえ、武田氏は当地の鎮守勝手明神(現勝手神社)禰宜に対して府中八幡宮への参勤を命じている。元亀二年(一五七一)九月一四日付の武田晴信判物写(「士籍編入願に添付せる古文書一覧」若尾資料)では、奥山宮内が「岩下之内」で二七貫文などを宛行われているが、同判物写はなお検討の余地がある。武田氏滅亡後の天正一〇年(一五八二)一二月一一日には田草川兵部助が「逸見岩下之内」で八八〇文を安堵されている(「徳川家康印判状写」国立史料館蔵井尻家文書)


岩下村
いわしたむら

[現在地名]吾妻町岩下

吾妻川の北岸の台地と、吾嬬かづま(一一八一・五メートル)薬師やくし(九七四・四メートル)岩櫃いわびつ山の連峰の間にある村。東は矢倉やぐら村。古くは吾妻川と吾嬬連峰とに囲まれた郷原ごうばら・矢倉・岩下・松尾まつおの四村を含めて岩下と称したといわれ、赤木文庫本「神道集」(上野国児持山之事)に山代庄岩下とある。永禄四年(一五六一)の関東幕注文(上杉家文書)に岩下衆として岩櫃城に拠った東吾妻武士団の斎藤越前守・山田氏が載る。天正一八年(一五九〇)一二月、真田信幸は岩下村天神の別当に対して三貫文の宛行状を出している(近藤文書)。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二三一石余。寛文郷帳では田方四四石余・畑方一八七石余。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]舘岩村岩下・番屋ばんや

現舘岩村の東端に位置し、集落は番屋川(「新編会津風土記」では岩下川)の右岸、自源寺じげんじ沢の出口にあり、標高は約八〇〇メートル。「会津風土記」に「岩下」とある。東にさかさ岩と称する断崖の岩があり、村名はこれによるという(新編会津風土記)。貞享二年(一六八五)の「長江庄郷村地方風俗帳」によれば「東ハ山、西ハ川流、咸畑方也」とあり、水田はなかったようである。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]六郷町岩下

寺所てらどこ村の南、御坂みさか山地の南西末端部、樋田といだ川中流右岸の段丘と山地に立地する。東は久保くぼ(現下部町)。山峡の僻村で、山中やまなか八村の一。村名は地内北部にある巨岩にちなむという(甲斐国志)。慶長古高帳に岩下とみえ高七九石余、幕府領。享保一八年(一七三三)の村明細帳(六郷町誌)によれば、延宝七年(一六七九)の検地高六一石余、うち田高二石余・反別二反余、畑高五八石余・反別一七町二反余、ほかに苅生畑二斗四升余。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]上田市大字岩下

千曲川にかん川が合流する東岸一帯の村。東は瀬沢せざわ川を隔てて大屋おおや村、西は神川を隔てて国分寺こくぶんじ村、北は下青木しもあおき村、南は千曲川を隔てて尾野山おのやま村(現小県郡丸子町大字生田いくだ)と境をなす。村内を東西に北国脇往還が通じ、集落のわずか南を(比高五メートル)千曲川が東より西に流れている。

正安三年(一三〇一)八月、僧明空が鎌倉より善光ぜんこう寺への道中を記した「宴曲抄」に、「海野・白鳥飛鳥の□□(飛鳥の脱カ)川にあらねども、岩下かはる落合や、淵は瀬に成たぐひならん」として岩下の名がみえている。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]庄内町西長宝にしちようほう 臼杵原うすきばるだい古原こわら下原したはる

大分川左岸で小挟間おばさま川がその支流と合流する辺りに位置し、南は久保くぼ村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷蛇口組に属した(府内藩記録)正保郷帳に村名がみえ田高一八石余・畑高三六石余、阿南あなん庄に所属。元禄一〇年(一六九七)の府内領郷帳(同記録)では高九〇石余、うち二一石余が新田。旧高旧領取調帳では高一一三石余。井手掛りは慶安元年(一六四八)完成の長宝水井手四二石余、享保一七年(一七三二)完成の馬場渡ばばわたり掘次井手三〇石余、小挟間古井手二九石余(三重野家文書)


岩下村
いわしたむら

[現在地名]中央町岩下

緑川に釈迦院しやかいん川が合流する地点からやや下流域一帯に開け、中山なかやま台地の崖下に立地する。対岸は上益城郡仁田子にたご(現甲佐町)、西は高木たかぎ村・池田いけだ村、南は萱野かやの村。「八代日記」天文一〇年(一五四一)四月二六日条に「堅志田・岩下・尾窪・ヨリ放火仕候」とみえるのは、甲佐こうさ盆地の岩下の可能性が強いが、当村と考えられぬこともない。「国誌」は「事蹟通考」を引いて「甲佐町始中山郷ノ岩下ヨリ出故ニ又岩下町ト云、今緑河ヲ隔テ南ヲ中山ノ岩下町ト云、北ヲ甲佐岩下町ト云」として、加藤清正の緑川改修によって町が二分されたとする。慶長国絵図に記載がなく、元禄国絵図・「国誌」は萱野村のうちとするが、慶長一二年(一六〇七)検地帳が作成されている(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)


岩下村
いわのしたむら

[現在地名]広神村並柳なみやなぎ 岩下

小屋柄こやがら川下流両岸にあたる。南は並柳新田、北は和田わだ村に続く。慶長七年(一六〇二)の岩ノ下村ほか四カ村検地帳(酒井徳一氏蔵)では田六反余・畠三反余で、名請人三人。正保国絵図に「岩ノ下村」とあり、高一三石余。天和三年(一六八三)の検地帳(関矢道太郎氏蔵)によると田九反余・畑屋敷八反余、同所新田として田九反余・畑屋敷三反余がある。田地はすべて地字吉原よしわらにある。畑のうち、ぢんば・二十日平の地は切替畑。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]日田市羽田はた 岩美町いわみまち

羽田村の東、月出山かんと岳の北の谷筋に立地する。正保郷帳に村名がみえ、田高五三石余・畑高一七石余で、有田ありた郷に属し、茅山有・竹山有と記す。


岩下村
いわしたむら

[現在地名]小原村岩下

現小原村の東端部にあり、矢作川の支流が南流する。天和元年(一六八一)には伊保藩領、明治元年(一八六八)旗本一色清三郎領である。同九年の副業統計(小原村誌)には木挽三戸、炭焼二戸がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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