岩木村(読み)いわきむら

日本歴史地名大系 「岩木村」の解説

岩木村
いわきむら

[現在地名]河北町岩木

東は新吉田しんよしだ村、南は吉田村に接する。元和八年(一六二二)より新庄藩領。新田本村鑑によると、高は元和八年、正保三年(一六四六)、寛文四年(一六六四)、元禄一三年(一七〇〇)とも八八〇石余。享保七年(一七二二)の新庄領上谷地一万石調書(河北町立図書館蔵)では本田畑八八六石余、新田七石余。天保郷帳では、岩木村は高七九六石余、岩木村枝郷笹本ささもと村は一〇六石余。


岩木村
いわきむら

[現在地名]大沢野町岩木

大沢野最下位段丘の神通川縁に位置し、東は加納かのう村、南と西は神通川を挟んで婦負ねい郡に接する。加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。天正一三年(一五八五)閏八月一三日の佐々成政知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に岩木とみえ、一三俵二斗とある。正保郷帳では高二七石余、田方七反余・畑方一町一反余。明暦二年(一六五六)の村御印では草高四〇石、免四ツ、小物成は鮎川役八匁・鱒役一匁・山役二四匁(村々御印物等書上)


岩木村
いわきむら

[現在地名]丹後町岩木

願興寺がんごうじ村の南方、小さい山を隔てて位置する。地名のとおり巨岩累々たる山の上に古木が生い茂っており、西南は開けて竹野川が流れる。垂仁天皇の皇子盤撞別命の御料地であったという伝承がある。

中世末の丹後国御檀家帳に「かくおん寺 里村□あまたあり、此辺岩木村と見る 家百五拾斗」と村名がみえ、続けて「井上宗右衛門殿大なる城主也国のおとな也・西村源右衛門殿・山本彦右衛門殿・蒲田源左衛門殿・小森助右衛門殿・津じ総左衛門殿・岡兵衛殿・小谷治郎右衛門殿・むかい左衛門殿・かちや左衛門殿・おりとの左衛門殿・さかや与太郎殿・木の下彦六殿」など二九人の名が記される。

右によれば岩木村の地を含めた「かくおん寺」という地名があったと理解されるが、丹後国田数帳に「楽音寺庄 十一町七段 伊勢下総守」とあるのがそれにあたるか。


岩木村
いわきむら

[現在地名]福光町岩木

小矢部おやべ川西岸、和泉いずみ村の北にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に「いわき」とみえ、広瀬組に属し、役家数一五。正保郷帳では高七〇三石余、田方四〇町六反・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七七四石、免五ツ七歩、小物成は山役五五匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には三清元組に属し、家数四九・頭振家数二、惣人数二八二、馬九、肝煎左太郎、組合頭市右衛門・甚之助(「三清元組覚帳」川合家文書)


岩木村
いわきむら

[現在地名]糸魚川市岩木

ひめ川下流左岸にあり、上流は頭山つむりやま村、対岸は上苅うえかり村枝郷の水崎みつさき村。頭山村・当村、今村いまむら新田(現西頸城郡青海町)の三ヵ村は幕府領で、背後に山を負い、日陰三ヵ村と称した。耕地はすべて姫川の氾濫原にあるため、近世を通じて頭山村と共同で川除普請が続けられた。天和三年郷帳に高六三石三斗余、元禄郷帳では六五石五斗余、大谷内おおやち村枝郷と注記される。文政一二年(一八二九)の明細帳によれば、男は柴・薪を伐り、縄・莚などをこしらえ、女は布木綿をこしらえ、春の雪消えとともに青物などをつんで糸魚川市場へ売って渡世している。


岩木村
いわきむら

[現在地名]上越市岩木・山屋敷やまやしき

中屋敷なかやしき村の南に位置し、せき川の支流正善寺しようぜんじ川が流れる。戦国時代当地にも本願寺門徒の講があり、教如が門跡を継いだ文禄二年(一五九三)、付近の村々とともに「ユハキ村」も代替の御礼に銀子を出している(六月七日「本願寺教如印判状」本覚坊文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android