大正~昭和前期の共産主義者。明治25年2月山口県厚狭(あさ)郡宇部村(現、宇部市)に生まれる。1916年(大正5)早稲田(わせだ)大学文学部を卒業し新聞記者になったが、20年ごろから社会主義を研究し、22年に雑誌『無産階級』を発刊、翌23年1月日本共産党に入党。この年6月に検挙され12月まで入獄、26年12月の第3回大会で中央委員。28年(昭和3)の三・一五事件では検挙を免れ、組織再建に努め、7月にモスクワで開かれたコミンテルン第6回大会に参加、帰国後中央ビューローで指導したが、29年四・一六事件で検挙された。獄中で公判を指導し、党史を代表陳述、無期懲役の判決を受けた。35年コミンテルン執行委員に選ばれた。17年間非転向を貫き、昭和20年3月15日、宮城刑務所で栄養失調のため死去。本籍地の山口県光(ひかり)市に記念碑がある。
[梅田欽治]
『『市川正一公判陳述』(新日本出版社・新日本文庫)』▽『『獄中からの手紙』(新日本出版社・新日本文庫)』
大正・昭和期の社会主義運動家 日本共産党中央委員。
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日本共産党の理論的指導者。山口県生れ。1916年早稲田大学卒業,新聞記者となる。20年ころより社会主義を研究,23年1月共産党に入党,6月第1次共産党事件で検挙され禁錮8ヵ月。24年5月共産党理論誌《マルクス主義》編集委員,6月政治研究会結成に参加し無産政党綱領・規約草案を起草する。26年3月《無産者新聞》主筆,12月共産党第3回大会で中央委員となる。28年三・一五事件で検挙をまぬかれ党再建に従事,7月のコミンテルン第6回大会に出席し日本の情勢を報告,以後党の中心となって運動を指導する。29年四・一六事件で検挙され獄内法廷委員として《日本共産党闘争小史》の表題で知られる陳述を行う。敗戦を前に45年3月宮城刑務所で獄死。
執筆者:渡辺 悦次
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…なお,これに先だって1923年4~6月に同名の雑誌が刊行されている。これは,1922年創立の第1次日本共産党の党員,山川均,市川正一らによって出された日本共産党合法理論機関誌である。機関紙《赤旗(せつき)》は,28年2月1日に謄写印刷で創刊され,月2回刊,定価5銭で,完全な非合法新聞として刊行されつづけたが,相次ぐ官憲の弾圧によって35年に停刊した。…
…田中内閣は,事件の記事解禁の4月10日,労農党,評議会,全日本無産青年同盟の3団体を共産党の外郭団体との理由で解散を命じ,ついで,治安維持法の最高刑10年の懲役を死刑もしくは無期にひきあげるなど改悪し,全県警に特別高等課(特高)を設置するなど共産主義や社会運動に対する弾圧体制を強化した。 検挙を逃れた市川正一らの幹部は,弾圧への抗議行動を訴えつつ党の再建をはかるとともに労農党などの再建につとめたが,コミンテルンの方針転換もあってその指導は混乱し,再建が軌道にのらないうちに翌29年4月の四・一六検挙で壊滅的打撃をうけた。三・一五事件の裁判は,四・一六事件の被告と統一して行われ(一部は分離公判),被告らは,裁判を共産党の宣伝扇動の場として利用する闘争を展開したが,32年10月の判決では,三・一五事件の被告徳田球一,志賀義雄,杉浦啓一,河田賢治らは,治安維持法改悪前の最高刑10年の懲役を科された。…
※「市川正一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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