1929年の共産党弾圧事件。前年の三・一五事件の一斉検挙から逃れた渡辺政之輔,鍋山貞親,市川正一らは党組織の再建をはかり,相つぐ中間検挙のなかで,《赤旗》の再刊や中国侵略反対,治安維持法改悪阻止などの運動を繰り広げつつ,臨時指導部を経て,29年3月には中央指導部を設立した。三・一五事件後,治安維持法を改悪するとともに特高警察網を全国に張りめぐらし,視察取締りを厳重化していた取締り当局は,党の再建を察知し,内偵を進めた。その結果,3月28日間庭末吉を逮捕し,所持していた党員の暗号名簿が発見され,それらの解読をもとに,4月16日払暁,1道3府24県にわたって約700人が一斉に検挙された。引き続いて高橋貞樹,市川,鍋山,三田村四郎らの中央委員が検挙され,そして6月16日には上海で佐野学が中国官憲に検挙され,日本側に引き渡された。7月28日現在で266人が起訴された。三・一五事件と四・一六事件は一括して第2次共産党事件と呼ばれるが,両事件を比較すると,前者が見込み捜査の面が強く大量検挙を行ったのに対し,後者は事前に党員名簿を入手したためにある程度ねらいを定めて検挙が行われ,ほとんどの中央幹部を捕らえるとともに,検挙者中の起訴者の割合が高かった点に大きな変化がある。こうした弾圧の強化の背景には,全県に特高課を設置するなどの特高警察網の完備と思想検事の設置などの司法面の体制整備があった。2度の大弾圧によって取締り当局は共産党壊滅という自信を抱いたが,それもつかのまで,党は田中清玄らを中心としてすぐに再建された。その後弾圧と再建が繰り返され,弾圧の範囲は党から外郭団体へと広げられていった。三・一五事件と四・一六事件で公判に付された市川,佐野,鍋山ら党幹部は統一公判によって法廷闘争を展開した。市川の《日本共産党闘争小史》は,その冒頭陳述である。しかし,佐野,鍋山は33年6月獄中より転向声明を発表し,以後,転向が相ついだ。
執筆者:荻野 富士夫
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1928年(昭和3)の三・一五事件に続き、翌29年4月16日に行われた日本共産党への大弾圧。中国侵略を進める田中義一(ぎいち)内閣は共産党の取締りを強め、三・一五弾圧直後の4月には、治安維持法の「国体の変革」の項の最高刑を死刑または無期懲役に引き上げる案を議会に提出、審議未了となると6月に緊急勅令で公布した。しかし共産党は弾圧のなかでも活動を続け、28年4月の第二次山東(さんとう)出兵に反対、12月には、解散された日本労働組合評議会にかわって日本労働組合全国協議会が、また同じく労働農民党にかわって政治的自由獲得労農同盟が組織された。そのため警察は引き続き共産党員を追及し国領五一郎(こくりょうごいちろう)ら多数を逮捕、さらに執拗(しつよう)に内偵を重ね、29年4月16日に共産党員および同党支持者約300名を一斉検挙、その後も市川正一(しょういち)らを逮捕した。四・一六事件関係の起訴は295名となり、全国各地で裁判に付された。東京では三・一五事件被告と統一公判となった。ほとんどの被告が治安維持法違反で有罪となり、同法改定後のため三・一五事件被告よりも重い判決を受けた。国領、市川は服役中に栄養失調などで獄死した。三・一五事件に続くこの弾圧によって、日本共産党はおもな幹部や全国の活動家が逮捕されて壊滅的な打撃を受けた。この事件は、三・一五事件とともに、国民を全面戦争に動員する体制づくりの前提ともなった。
[梅田欽治]
『我妻栄他編『日本政治裁判史録 昭和・前』(1970・第一法規出版)』▽『日本共産党中央委員会『日本共産党の六十五年・上』(1988・日本共産党中央委員会出版局)』▽『上田誠吉著『昭和裁判史論』(1983・大月書店)』
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