精選版 日本国語大辞典 「常磐光長」の意味・読み・例文・類語 ときわ‐みつなが【常磐光長】 平安末期の大和絵画家。宮廷の絵所(えどころ)に仕える。後白河法皇に用いられ、承安三年(一一七三)藤原隆信と最勝光院御堂の障子絵を合作。散逸した「年中行事絵巻」の原本や現存する「伴大納言絵詞」(国宝)の筆者と伝えられている。生没年不詳。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
百科事典マイペディア 「常磐光長」の意味・わかりやすい解説 常磐光長【ときわみつなが】 平安末期の宮廷画家。生没年不詳。土佐,藤原の姓でも呼ばれる。後白河院の命で《年中行事絵巻》の制作の中心となったほか,1173年最勝光院御所障子に藤原隆信とともに日吉行幸などの図を描いた。《伴大納言絵詞》の作者とも伝えるが,確証はない。→関連項目伴大納言絵巻|病草紙 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「常磐光長」の解説 常磐光長 生年:生没年不詳 平安後期の宮廷絵師。吉田経房の日記『吉記』によれば,承安3(1173)年,建春門院御願の最勝光院御堂の障子絵を描く。御堂内御所と左右廊に28品,別御所に平野と高野御幸を描いたという。後年,山科言継は日記『言継卿記』のなかで,天文18(1549)年,光長ら筆の「年中行事之絵」を禁裏で一覧したと書いている。この絵巻は後白河天皇の命で保元2(1157)年から治承3(1179)年の間に制作されたと考えられる。原本は失われたが,住吉如慶模写の「年中行事絵巻」(個人蔵)が現存し,うち「朝覲行幸」「射遺・賭弓」にある奥書に絵は光長と記され,その画風を伝えている。また「承安五節絵」(模本現存),「伴大納言絵巻」(出光美術館蔵)は光長の作と伝承される。<参考文献>福井利吉郎「伴大納言絵と常磐光長」(岩波講座日本文学『絵巻物概説』下) (長谷川稔子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常磐光長」の意味・わかりやすい解説 常磐光長ときわみつなが 12世紀後半に活躍した絵師。保元2 (1157) 年から治承3 (79) 年にかけて,後白河院の命で企画制作された『年中行事絵巻』 60巻の中心画家と伝えられる。また現存する 12世紀後半のすぐれた説話絵巻『伴大納言絵巻』は光長筆とする説が有力。『年中行事絵巻』は現在模本でのみ伝わるが,巧みな画面構成に『伴大納言絵巻』と共通する傾向がうかがわれる。また後者での柔軟な筆づかいによるいきいきした表現,的確な描写,効果的な彩色は非凡な才能を感じさせる。後世多くの作品の筆者に擬せられた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常磐光長」の解説 常磐光長 ときわ-みつなが ?-? 平安時代後期の画家。後白河院につかえた宮廷絵師。承安(じょうあん)3年(1173)最勝光院の障子絵をかく。また60巻におよぶ「年中行事絵巻」(原本焼失。模本が現存)を中心となって制作。「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)」(国宝,出光美術館蔵)の作者ともいわれる。常磐(盤)源二光長ともいい,のち土佐派が成立すると,土佐(藤原)光長ともよばれた。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by