絵画や意匠などを制作,考案する工房。また,その工房を組織する絵師をもさす。8世紀の初期に律令制が整備されると,中務省内に図書寮などとともに,画工司(えだくみのつかさ)が当時の公的な絵画制作の機関として設けられた。だが,この時期の大規模な国営事業に際して編成された令制外の造営官司に,〈絵所〉と記す作業工房の存在したことが《正倉院文書》によって知られる。この絵所は,しかし,8世紀末から始まる官営工房の解体や削減によって,中務省管下の内匠寮に縮小,吸収された画工司とともに,その消息を失う。ところが,9世紀後半に宮廷内に設けられた〈絵所〉が,《三代実録》に記載される。さらに,10世紀の中期に源高明が編集した《西宮記(さいぐうき)》にはその絵所が内裏北辺の西側にある式乾門内の東わき,御書所の南側に所在するとある。また,13世紀中期の《拾芥抄》では,その場所を建春門内の御書所の北側,すなわち内裏東正面の左衛門陣内東わきとしている。これら御書所に近接した絵所の配置は,律令の伝統,さらにさかのぼって中国唐代の官制として知られる修賢院書院と直院・画直からの影響が推測される。さて,9世紀末にその存在が確認される宮廷の絵所は,《西宮記》によれば五位蔵人の別当と預(あずかり)などの官人のほかに,墨書(すみがき),内豎(ないじゆ),熟食(じゆくしよく)が加わった公的な絵画制作の機関であった。この職制のうち,預は絵画活動の事務責任者であったが,墨書は大勢の絵師のなかから画技の巧拙によって選抜された制作主任と考えられる。内豎はこの当時の民間工匠をいい,熟食はもと内匠寮に所属した雑工であった。さらに他の文献から,墨書配下の工匠のなかに,画工司の金画長上とよばれた金泥専門工人に相当する淡(たみ),主として彩色を担当する作絵(つくりえ),また顔料を調製する丹調(にづくり)などの職名と絵画制作の分担が知られる。この宮廷の絵所絵師たちがさかんに活躍する12世紀に入ると,公認された絵仏師も工房を組織し,寺院の造営を場としてともに手腕を競った。まもなく,宮廷絵所の制作主任は預の官職に任ぜられ,地位も向上して五位相当の官位をえた。絵所預の絵師は14世紀以降次々に交替し,やがて土佐派の画系を中軸として,丹波国大芋(おくも)庄の絵所領領有を求めて16世紀後半にいたる。だが,他方,宮廷絵所の制作活動とその組織を規範として,院,幕府,寺社にも類似した絵師や絵仏師の工房が設けられ維持されていく。民間の工房も中世を通じて画技を競い,ついに《親長卿記》などの室町期文献に工房の主宰者をも意味する六角絵所や春日絵所などの記述があらわれる。やがて,強力な家系の組織化をはたし,支配権力に直結した狩野派が多彩な絵画制作工房として全盛期をむかえた近世初期に,宮廷の絵所はもはや往時の活力を失う。1686年(貞享3)に刊行された黒川道祐の《雍州府志》は,京都の商工業活動を詳しく列記し,狩野・土佐の両画派や俵屋・海北などの絵屋のほかに,京中の大寺院と連携してもっぱら仏画をえがく工房を〈絵所〉として掲げる。そこに,中世に形成された石清水八幡社や祇園社,あるいは本願寺や東寺,または南都の大寺院や院家などに根づいた社寺絵所職や絵所座の系譜とその変容があらためて注目される。
→工房
執筆者:吉田 友之
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